今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO26(2002.02.15) 自動車路線の発達と神中線・小田急線の開通

大正13年の鶴屋自動車のパンフレット(飯田孝蔵)
 大正年代末期から昭和初期にかけては、厚木と各地を結ぶさまざまな乗合自動車路線や鉄道が開通した時代であった。
 新たな交通機関の発達は、旧来東海道平塚駅から人力車や乗合馬車などで厚木に迎え入れていた鮎漁中心の客筋を、各地からさまざまな交通手段を利用して厚木へいざなうことが可能となり、花柳界は一段と華やかさを増して行った。
 このことは厚木―戸塚(横浜市)間を運行した大正13年(1924)の「鶴屋自動車案内」に、「水郷の名巴(名邑のことか。邑は村・里・町の意味)厚木へ…」、「花柳の里厚木へ…」、「一日の御清遊を相模川の鮎漁へ」などと記され、また、大正12年(1923)の「相模自動車案内」に、逢坂屋すし店、篠崎料理店、丸花食堂、若松屋旅館、かば焼有田屋、西洋料理楽養軒、萬八十旅館、新倉旅館、古久屋旅館などの料理屋・旅館に加え、千歳屋鮎問屋、活動常設キネマ館ほかの広告があることからも推測できる。
 この頃開業した厚木発着の自動車路線創業年月をあげると次のようになる(『愛甲郡制誌』)。
  相模自動車株式会社 大正9年8月  
  中央相武自動車株式会社 大正12年4月 
  片瀬自動車商会 大正12年8月  
  合名会社鶴屋自動車商会 大正8年 
  保土ヶ谷乗合自動車商会 大正13年 
  相央自動車株式会社 大正14年  
 また、大正15年(1926)5月には神中線(現相鉄線)の二俣川(横浜市)―厚木駅(海老名市河原口)間が開通、同年7月には相模鉄道(現相模線)が茅ヶ崎(茅ヶ崎市)から神中線厚木駅まで開通した(『厚木郷土史』2巻)。
 さらに昭和2年(1927)、小田急線が開通して厚木にも鉄道の駅ができることとなったが、すでに海老名市河原口に神中線・相模鉄道の「厚木駅」が開業していたため、小田急線の駅名は「相模厚木駅」とせざるを得なかった。「相模厚木駅」は昭和19年(1944)、「本厚木駅」と改称されて現在に至っている(『小田急五十年史』)。
 昭和9年(1934)に発表された「厚木音頭」に
   相模厚木へ 神中で来れば
   どうせストップ バスもとぶ
と唄われ、同年の「鮎まつり」の唄に、
   あゆの香りへ青葉風 客はハマから都から
   神中で小田急で ヨイトバスで
と唄われているのは、小田急線を利用する東京方面より、むしろ神中線を利用する横浜方面の客がより大きな比重を占めていたことを印象づける。
 「厚木音頭」に、「どうせストップ バスもとぶ」と唄われているのは、大正15年に開通した神中線の終点厚木駅が、海老名市河原口であったため、ここからは乗合自動車(バス)で厚木の町まで客を運んだからであろう。
 昭和16年(1941)には、神中線が海老名駅から小田急線に乗り入れて相模厚木駅(現本厚木駅)まで運行、昭和18年には一時中断したが、同20年に再開、昭和39年(1964)に廃止されるまで本厚木駅から横浜行の直通電車が発車していた(『小田急五十年史』ほか)。
 横浜方面からより多くの客を迎え入れていた厚木花柳界は、第二次大戦後は小田急線を利用する客筋へと次第に変化して行った。
 「厚木音頭」の歌詞も変わり、
   小田急相模で 厚木へ来れば
   洩れる爪弾き 鮎の町 
となり、左記に示す「厚木恋しや」(高橋正純作詞)の歌詞からも、交通機関と厚木花柳界をめぐる時代の変化を読み取ることが出来る。
   小田急降りればネ 阿夫利の峯が 
   にっこり迎える 花街しぐれ
   帰しやせぬぞえ やらずの雨か
   厚木恋しやネ 厚木恋しやネ 厚木恋しやネ

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