今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO25 (2002.02.01) 大正時代の花柳界点描

大正14年6月の石多屋の鮎漁。芸妓の小清、こま吉、力弥、勝利、かおる、玉枝、千代龍、光子の8人(飯田孝蔵)

 大正時代は第1次世界大戦に便乗した好況と、その反動として起きた大正9年(1920)の戦後恐慌・株価の暴落、大正デモクラシーの流れ、大正12年(1923)9月1日の関東大震災による被災など、厚木花柳界を取り巻く状況の変化にはめまぐるしいものがあった。
 この15年にわたる大正時代の厚木花柳界事情を、「横浜貿易新報」の記事から追ってみよう。
 厚木花柳界繁昌 大正2年(1913)12月には、数年来15、6人であった芸妓が21人に増加した。来春はさらに5、6人増える予定で、一般には不景気であるとの声ある昨今、厚木は「なかなかの繁昌なりと」
 芸妓見番組合の役員改選 大正3年(1914)12月、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)芸妓見番役員改選によって、下記の新役員が決定した。
 幹 事 高橋駒吉 秦廣吉
 相談役 溝呂木助次(三)郎 水島村次郎
 収入役 岩崎初太郎
 監査役 井上利太郎
 
酉の市 大正5年(1916)11月の天王裏町(現中町1丁目)大鷲神社酉の市は、好景気の余波を受けて夜の12時まで「非常の雑踏」を極めた。酉の市で売る縁起物の熊手は、客も金もかき取るといわれて花柳界で人気があった。
 
横浜芸妓団の鮎漁 大正6年(1917)7月24日、横浜市内関内・関外・神奈川の芸妓衆で組織する「紅梅団一行50名」は、古久屋の案内で相模川鮎漁遊船会を行った。
 
鮎漁季近ずき厚木花柳界色めく 大正11年(1922)5月下旬、鮎漁の解禁が近づくと、「不況のどん底に落ちた厚木町の花柳界も俄に活気付き、当町で一流の古久屋、若松屋等では、既に京浜地方からの申込みもあり、其他各料理屋共、迎客の準備に忙殺されてゐる」
 
相武自動車会社開業祝賀会 大正12年(1923)6月、厚木キネマ館で開催された中央相武自動車株式会社開業式では、「式後厚木芸妓十裙の綺麗處が酒間を斡旋して盛大な宴会を催し」た。
 
無題録 大正13年(1924)3月、厚木芸妓27名の「検診」を、厚木警察医立会のもとに杉浦医院で執行した。
 
宮チャンのドロン 大正13年(1924)8月、厚木花柳界にその人ありと知られた末吉の宮チャンは、トラック業のある人と「お安くない」関係となり、相模橋(現あゆみ橋)のホトリでの、2人の甘い甘いささやきは関係すじの気をもませていた。ところが、宮チャンの「浮世離れてネー、との説に」、その人は「スッカリ共鳴したのか」、2人は「奥山さして雲がくれ」してしまった。
 末吉では「天下の一大事」と、捜索願とやらを出すなどの騒ぎとなった。
 
発展料一週間 大正14年(1925)、「厚木町マーケット裏(現厚木市東町)」にある南京料理店ヒサゴ屋の芸妓2人(16歳と19歳)は、自動車運転手や地方の不良青年を相手に「盛んに発展して居るので」、「風紀紊乱」のかどで1週間の拘留となった。
 
見番の新築 大正15年(1926)5月には、「見番を新築」することになった。大正12年9月1日の関東大震災で焼失して以降、厚木芸妓見番は「四畳半十円」の「借家住い」であった。
 このため、見番を新築すべきであるとの議が起こり、候補地を物色中であるが、「早く発表すると料理屋間の争奪戦が演出せられるので、秘密裡に某所に交渉中」であるという。
 これが寿町1丁目で営業していた竹の湯東側にあった、昭和年代初期の見番の建物をさしているのであろう。

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