今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO24 (2002.01.15) 寄席・劇場と映画館

伊勢原芸妓出演義太夫大会厚盛館のチラシ(昭和6年)<飯田孝蔵>

  厚木に初めて寄席が出来たのは明治時代初期のことであった。
 『あつぎ町史』九輯によると、「明治初年、横町(現厚木市元町)入口北側に熊沢屋と云へる大きな宿屋ありて、此処にて宿屋をやめてから、その2階を利用して、寄席の如きものをすると云ふ。これが当町の寄席のはじめで、藤沢・伊勢原・平塚には未だこの頃はなかったと云ふ。此処にて浪花節や手品等をやり、又活動写真のはじめとも云う幻灯を見せた」と記されている。
 また、天王町(現厚木町)の高梨時計店が、明治25年(1892)に開業する以前、同所にあった豊島屋の裏座敷では当時東京で流行した怪談を聞かせたこともあったという。
 明治時代中期から、昭和時代初期までの寄席、劇場、映画館等について『厚木郷土史』3巻『阿夫利』7号』『厚木天王町郷土史』『星野日記』『相模人国記』『厚木近代史話』「横浜貿易新報社」から紹介してみよう。
 厚木劇場 明治15年(1882)2月、自由民権運動を推進する結社「相愛社」の「大親睦会」が開催された。明確な位置は不詳。
 
富士広座 旧愛甲郡厚木町2565(現厚木市東町2―1)竹松米太郎が、明治維新の時に廃寺となった秋田庵跡(現厚木市寿町1一8付近)で営業をしていた。明治26年(1893)1月には政談大演説会が開催され、同年2月には「演劇」の興行があった。
 
新玉亭 前記竹松米太郎が、富士広座の西側につくった寄席小屋。明治26年(1893)には寄席、昔語、浄瑠璃の興行があった。また、明治28年(1895)2月には「農会」が開催されているので、集会の場としても利用されていたことが知られる。
 
日吉座 天王町(現厚木市厚木町)日野屋の裏手で荻野桂太郎が営業した。浄瑠璃人形一座や、「夜語物(浄瑠璃)」興行を度々行なった。明治30年(1897)の厚木の大火の時、満員の客席は大騒ぎとなり、つるしてあったランプが落ちて日吉座からも出火した。
 
宝来亭・花上亭 宝来亭は前記新玉亭のあとに開業した。後には花上勘太郎が買受けたので、花上亭と改称した。大正12年(1923)9月の関東大震災まで営業した。
 
材木座 上町(現厚木市東町)の相模川沿い、ミイソ材木店のところにあった寄席。大正4年(1915)には、林月峰一座の歌舞伎興行があった。
 
活動写真常設館(厚木キネマ館) 大正10年(1921)、前記材木座の跡に仁藤佐兵衛が開業した映画館。仁藤佐兵衛は天王町(現厚木市厚木町)の料理屋旅館古久屋の主人。先代仁藤佐兵衛は明治37年(1904)に解散した厚木芸妓株式会社取締役であり、明治43年(1910)に分裂する愛甲郡宿屋組合(60十余名)の正行事をつとめていた(「今昔あつぎの花街10))」)。
 大正12年(1923)の関東大震災で焼失。再建後の厚木キネマ館の経営は古久屋から小島庄吉に変わり、その後関屋興行部の手にわたった。トーキーではなく、無声映画(サイレント)の時代だったので、弁士が立つキネマ館の舞台には、楽隊が入る穴があいており、二階の客席は畳敷だった。また、キネマ館は相模川沿いに建っていたため、商店街からの入口には楼門風の建物があり、開演間近になると、この上で楽隊が音楽を流して客を呼び込んだ。昭和5年(1930)には、厚木芸妓連が出演した「厚木音頭観賞夕」が開催された。
 
復興亭 関東大震災後、本町(現東町)のマーケットの奥で、一時期営業していた。
 
厚盛館 仲町(現厚木市幸町)にあった劇場。昭和6年(1931)の「厚木映画演芸壱年」には、東京人形一座、女流レヴュー、新派、落語、浪曲、拳闘大試合などの興行チラシが綴られている。昭和11年(1936)五月の放火事件で焼失した。
 
相模座 相模橋(現あゆみ橋)を渡って東に向い、河原口(海老名市)の旧土手を過ぎた付近にあった演芸場。昭和6年(1931)の「厚木映画演芸壱年」には、映画のほか歌舞伎、曲芸、日蓮聖人650年記念宗教劇、女流剣劇等のチラシが綴られている。

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