今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO23 (2002.01.01) 宮家・華族・政治家も厚木の鮎漁へ

大正時代初期の古久屋旅館(林明徳氏蔵)

  厚木市を訪れた板垣退助や伊藤博文、細川侯爵家・宮内省の人たちも楽しんだ厚木の鮎漁は、明治時代末 期から大正時代に入ると次第に有名となって、東京・横浜方面の団体客を含め、多くの人々が訪れるように なった(『愛甲郡制誌』ほか)。
 大正12年(1923)9月の関東大震災以前、厚木では次の5軒が鮎漁遊船案 内旅館として知られていた。
  古久屋 仁藤佐兵衛
  若松屋 岩崎初太郎
  高島亭 平本綱五郎
  新 倉 新倉政五郎
  萬八十 岩隈八十七郎
 以下・明治時代末期から大正時代にかけて厚木の鮎漁に訪れた人たちの中から、そのいくつかを紹介してみよう。
 華族・農相ら一行来遊
明治45年(1912)には、矢部又吉、松平春光、松平義時ら華族一行が自動車にて来厚、古久屋に一泊した。また、牧野農相、島津公令息、山内鉄道院理事、陸・海軍中佐ら一行が「前後四輪の自動車」にて古久屋に着いた時には、愛甲郡長・厚木警察署長、厚木町長らが出迎えた(「横浜貿易新報」以下同)。
 宮家・政治家の来遊
 大正3年(1914)には、第一旅団長久邇宮一行が厚木地方へ出張して古久屋に投宿した。また、同年には村野常右衛門一行が若松屋で、愛甲郡南毛利村村長・村会議ら一行は萬八十で鮎漁を行なった。
 歌舞伎連の鮎漁大正4年(1915)は、林月峰一座約30名が「探涼及び鮎漁会を兼ね」て新倉旅館に着き、上町(現東町)の材木屋で演劇興行を行なった。なお、東京歌舞伎座連中も「数団に区分して」揃いの日傘、揃いのゆかたを用意して、平塚駅から人力車をつらねて「景気よく厚木に入る仕組」であるという。
 画伯連の鮎漁
 大正5年(1916)には、東京本郷の教育勅語図解出版元である日本済美会が主催する納涼鮎漁会を兼ねた大画会が開催された。高島亭を会場とした画会には、村瀬玉田、松本風湖、鈴木華邸、寺崎廣業、河井玉堂、渡辺華石、荒井千畝、小室翆雲ほか20〜30名の出席が予定され、帝室博物館院富永寛客、同美術課長溝口禎次郎が賛助者として菜を連ねている。なお、この画会の主眼は、「渡辺崋山の記念碑を厚木町に建設することに在り」、事務所は愛信堂溝呂木吉次郎方であると報じられている。
 厚木鮎漁盛況 
 大正6年(1917)7月1日(日曜)には、鶴見(横浜市)浅野造船所をはじめ京浜方面からの鮎漁客が自動車にて厚木を訪れた。若松屋、古久屋、新倉の3旅館では20余艘の船を仕立て、花火を打ち上げて歓迎した。
 また、同年7月23日には、駿河銀行厚木支店営業好成績祝を兼ねた「夜間船中宴会」が催され、支店長安西文之助ほか支店行員と関係者が夜の相模川に船を浮かべた。
 厚木鮎漁と日曜日
 大正5年6月11日(日曜日)は、横浜絹絲検査所の一行が新倉旅館に、また、若松屋には東京、横浜から30名の団体が、さらに古久屋では七組の客があって「厚木芸妓は引張凧の状況」であった。
 また、同年6月25日の日曜日には、古久屋旅館六組約五十名、若松屋旅館2組約25名、新倉旅館約十名ほかの鮎漁客で賑わった。
 このほか、大正5年には中郡成瀬村(伊勢原市)村長、助役、学校教員ら約39名、横浜戸部小清水柔道師範連中、横浜スタンダード石油会社、横浜野沢屋呉服店、大成社(社長は代議士川井孝策)ほかの団体が訪れた。
 閑院若宮の鮎漁
 神奈川県立厚木中学校(現厚木高等学校)校友会の『会誌』を見ると、大正10年(1921)6月26日には、「閑院若宮殿下御来校、阿部小田原中学校長以下同校職員とともに、本日当地に於て鮎漁の御遊ある為なり」と記載されている。
 大正時代に入って鮎漁客が増加すると、一方では天然の鮎が減少・不足するという問題が生じた。大正5年(1916)からは厚木町の町営による鮎の人工孵化と放流試験が始まり(「横浜貿易新報」)、翌年からは神奈川県が小鮎川流床に孵化場を設けて鮎の増殖をはかった(『愛甲郡制誌』)。
 しかし、大正12年(1923)九月に起きた関東大震災と、その後の都市復興にともなう砂利採取の急増は、「相模川の鮎漁」に大きな影を落とすことになるのである(『相模川漁業協同組合連合会創立50周年記念誌』)。

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