今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO22 (2001.12.15) もれる爪弾き大手町

厚木神社祭礼大手町の山車・手古舞の芸妓は松奴・勝代・勝利の3人(大正12年頃)<飯田孝蔵>

 現在の厚木市寿町1丁目付近は、明治時代末期頃から昭和年代にかけて、厚木花柳界の中心として発展してきた。
 寿町1丁目は、昭和40年(1965)に施行された住居表示によって生まれた町名で、これ以前の旧町名は大手町と弁天町であった。この地域が厚木花柳界の中心となったのは、大正12年(1923)の関東大震災後、楠豊太厚木警察署長が花柳界の区域を大手町、弁天町に限定するよう命じたことが大きく影響していた。
 ところが楠署長は大正13年11月に移動(『厚木郷土史』第2巻)、2か年の猶予期限はそのままとなってしまったのである。大正15年(1926)の「横浜貿易新報」は、「警察の粗忽から花柳界の移転期、期限切れを失念する、気が付いて又猶予願」と、このことを報じている。
 ともあれ、関東大震災後には、芸者の取次や、玉代(ぎょくだい。花代のこと)の精算等にあたる見番も大手町に移転し、料亭や芸妓置屋が次第に数を増していった。
 昭和9年(1934)に発表された「厚木音頭」に、
  情け厚木は やらずの雨か
    もれる爪弾き 大手町
 と唄われているのも、大手町界隈に、三味線の爪弾く音が聞こえてくる厚木花街の灯が、華やかにともっていたからにほかならない。
 大正8年(1919)の厚木町(市制施行以前の愛甲郡厚木町)議会は、左記の町名改正を議決した(『厚木郷土史』)。
 松原(旧称松原。昭和二年松枝町と改名)、元町(旧称横町)、本町(旧称上町。現東町)、天王町(旧称天王町。現東町・厚木町の一部)、仲町(旧称仲町。現厚木町・幸町・中町の一部)、旭町(旧称下町。現幸町の一部と旭町)、大手町(旧通称天王裏。現寿町・中町の一部)、弁天町(旧通称上裏町。現寿町)
 大手町は、相模大橋交差点から西に向かう道路(現中央通り)両側が、北天王大縄手・南天王大縄手の小字名であることに由来する町名であり、天王町西側の裏手に人家ができ始めた頃は天王裏と呼ばれていた。また弁天町は寿町1丁目長福寺門前にある弁天社にちなんで名付けられたもので、上町西側の裏手に人家が増え始めた頃には上裏・上裏町などといわれていた。
 天王裏・上裏は総称して裏町とも呼ばれ、明治31年(1898)には奥田末吉が「上裏町」に「手軽西洋料理」等の店を開業し(『厚木の民俗』9)、明治時代末期頃の見番が「天王裏」にあったことからもわかるように(「郷土今昔物語 厚木の花柳界」『県央公論』)、裏町一帯は厚木の花街として次第に賑やかさを増して行くようになるのである。
 昭和初期の代議士胎中楠右衛門の伝記小説『朱鳥』には、裏町の異名である「蛙端」の芳川という小料理屋が登場する。明治23年(1890)、少年時代の楠右衛門は、芳川で沼田林蔵・飯塚金平と出会い、22歳で色の白い潤みのある眼をしたお勢、25、6の痩せたお花、それにお沢、小春などを相手に盃を交わして、自由党壮士への道を歩みはじめることになる。
 『朱鳥』に裏町の異名として紹介された「蛙端」は、田んぼに面して埋め立てられたいわゆる「新地」であったことをほうふつとさせる。寿町1丁目には、近年まで「新地地蔵尊」がまつられており、この地蔵尊参道に面した道路を「新地通り」と呼んでいた。
 「新地」には、@新たに開いた土地。新開地。A新たに得た領地。B新開地にできた遊里。等の意味がある(『広辞苑』)。
 明治15年(1882)と、明治39年(1906)測量の陸軍陸地測量部の地図(2万分の1)を比較して見ると、相模大橋交差点から西に向かう道路(中央通り)北側の地域に、特に人家が増えている様子が具体的にわかる。
 大正8年(1919)に大手町・弁天町が誕生したのは、相模川沿いの旧街道に面していた街並が西に向って発展し、新しい町名が必要となるほど人家が急増していたことを物語っている。

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