今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO20 (2001.11.15) 紅裙連(こうくんれん)の活躍と厚木周辺の花柳界

「厚木芸妓見番広告」<大正2年1月3日「横浜貿易新報」>

 明治、大正期の「横浜貿易新報」には、「紅裙連」「紅裙隊」の言葉がしばしば登場する。『広辞苑』によれば、「紅裙連」の「紅裙」は、「紅色のすその意」であることから、「美人・芸妓」のことであると記されている。つまり「紅裙連」は「芸妓連」と意味を表していることになる。しかし現在では、この「紅裙連」の言葉を聞くことが無いのは時代の趨勢であろうか。
 明治43年(1910)7月の「横浜貿易新報」は、「厚木は夜の町」の見出しをつけ次のような記事を掲載した。
 厚木では町の発展をはかるべく、一時は40名からの芸妓を置いたが、今日では13名の「紅裙連」となったので、「何にか物足りない」。とはいえ、「夜になると、俄に景気立て」、料理屋等の軒頭にはお白粉の臭いがするばかりか粋な音〆が軒毎に響いてすこぶる賑やかだ。たまたま雑貨店を見てまわると、販売している多くの品は最近の流行品で、「目下町の事業としては電灯と電話を引くべく画策中である」と記され、記事は「斯くの如くして、厚木は到底夜の町だ」と結ばれている。また、この前年、明治42年9月に行われた横浜貿易新報社主催の「相模川鮎漁会」では、「厚木は平塚よりも戸数も人口も多いにも拘はらず、平塚に約20余名の美形あるに対し、厚木にはタッタ11名の妓員ある丈けだ。併し、〆次や玉八や、姉さん株で松子、久子、清子、されている。
 このように、厚木芸妓連が不足ぎみであることが紹介初音は孰れも美しい方で、就中松子の端唄は立派なもので、お酌歌留多の踊りも質が宣いとの評判だ」と記されているのは、団体客を厚木に呼ぶ鮎漁遊船会が、夏期のみという期間限定企画であったことも1つの要因となっていたのであろう。厚木には平塚から芸妓連が出張してくる場合もあった。
 厚木芸妓連が次第にその数を増やすのは大正時代になってからのことである。大正2年(1913)1月の「厚木芸妓見番」広告では、18名であった芸妓が、大正6年(1917)には21名となり、大正13年(1924)には27名に増加している。さに大正15年(1926)9月には「厚木芸妓43名」(「横浜貿易新報」)と急増しているのは、この頃に厚木花柳界が急速に発展したことをうらづけている。
 大正12年3月に行われた神奈川県蚕種同業組合創立20周年祝賀会では、「厚木より抜きの芸妓を相手に」園遊会が行われ、同年6月の相武自動車会社開業祝賀会でも「厚木芸妓10裙」の綺麗どころが宴会を盛り上げている。また、大正13年8月の厚木郵便局落成式後の招待会では「10数名の厚木紅裙連」が「酒間を斡施し」、大正15年5月の県立厚木実科高等女学校(現県立厚木東高校)新築落成式後に行われた宴席には「紅裙30余名」が「酒間を斡施し」さらに県知事、県会議員ら30余名は大手町(現寿町1丁目)石多屋での宴に臨んだ。
 厚木花柳界の発展には、鮎漁客に加え、芸妓連が宴席を盛り上げるさまざまな催しが行われるようになったことも大きく影響していたものと考えられる。
 「横浜貿易新報」は大正時代後期の厚木周辺の花柳界を次のように紹介している。
 
田名芸妓
 大正12年8月に行われた愛甲郡中津村(愛川町)ほか2か村の相模川沿岸耕地整理組合事業起工式では、田名(相模原市)花柳界の「美形総出」で式後の鮎漁会・園遊会を盛り上げ、大正15年には米三・小春・勝代・琴次・のんき・つばめの芸妓6人が、田名三業組合から皆勤表彰された。
 
伊勢原芸妓
 大正11年に行われた中郡成瀬村小金塚(伊勢原市)の御野立所記念碑除幕式では、式後「伊勢原芸妓の手古舞」があった。また、大正12年には伊勢原(伊勢原市)川村屋の芸妓由良子・かの子・ちょび助・小猫が謹賀新年の広告を出している。
 
秦野芸妓・平塚芸妓
 大正12年、金目川堤(平塚市)の桜は満開となって、よしず茶屋も例年になく多い。平塚新宿(平塚市)・秦野町(秦野市)からは百人足らずの芸妓が出張して景気をあおっているが、平塚婦人矯風会と海軍火薬廠の婦人連は、伊勢原警察署に金目川堤の芸者見番の撤廃を出願した。その理由は「善良なる観桜客の風紀上に弊害が多く、1部の遊蕩児の為に一般の人々を無視して居る」からだという。

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