今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO19 (2001.11.01)    明治43年に始まった相模川川開き花火大会

相模川川開きの花火<大正初期の古久屋旅館絵はがき>(林明徳氏蔵)

 現在、8月上旬に行われる「あつぎ鮎まつり花火大会」は、厚木市最大のイベントとして数多くの見物客で賑わっている。平成13年8月には、第55回を迎えた「あつぎ鮎まつり花火大会」の伝統をたどると、その歴史は明治時代末期に始まった相模川川開き花火大会にさかのぼることができる。
 明治43年(1910)7月5日、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)にある古久屋、高島亭、若松屋3旅館が合同で主催する相模川の川開きが挙行された。古久屋、高島亭、若松屋の3旅館は、前年の明治42年に行われた横浜貿易新報社主催の相模川鮎漁会の指定旅館であり、この鮎漁会でも花火が打上げられて人気を呼んだ(「今昔あつぎの花街」15)
 以下「相模川の川開き、未曾有の盛観を呈す」の見出しでこれを報じた「横浜貿易新報」の記事によって明治43年の7月5日の情景を紹介しておこう。
 午前10時、10数発の煙火を合図に船はいっせいに川岸をはなれた。第1の船には古久屋、高島亭、若松屋の主人と家族、および料理人が乗船。続く数艘の「満船飾」の船には来賓が、また揃いのゆかたを着た厚木町芸妓連10数名も、三味線太鼓の鳴物をはやし立てて繰出した。相模橋(現あゆみ橋)下流にいかりを下した船団は、漁師が打つ網でとれた鮎をまず「洗い」にして食して酒宴となった。やがて、進水式を兼ねた3旅館協同の新造船共栄丸は、芸者連を乗込ませ、昨年〆治が作った新作「相模踊り」を開演しつつ、各船は次第に相模橋近くに集合した。時しも芸妓連の三味線、太鼓は一段と賑やかに、これに加え川開きを盛上げるために参加した馬鹿ばやし連にも力が入り、花火係りは負けるものかと轟々花火を打上げ、相模橋付近は万雷の一時に落ちるが如き騒ぎとなった。
 夜に入ると、相模川での花火大会となった。横浜南吉田町横井煙火製造による花火は、相模川の中にある島で打上げが始まった。打上げ花火は中天に轟きわたり、夜空には赤、青、白、黄色の火片が飛散し、川中の島での仕掛花火に加え、スターマインの連発に、「遠く川と云はず、陸と云はず、一面を輝き渡り、平素寂たる々川筋も、同夜は一面不夜城を現出せりと」。このように、古久屋、高島亭、若松屋の3旅館が主催する川開きは、翌年の明治44年には6月10日(土)・11日(日)に行われ、10日の夜には「諸種の煙火」が打上げられた。
 また、明治45年(1912)の鮎漁川開きは、やはり前記3旅館主催によって、6月8日・9日の両日に開催された。8日夜には横浜市吉田松栄堂製造の打上げ花火・仕掛花火に加え、数百の灯籠流しもあって、「見物人は相模橋(現あゆみ橋)付近に群集し頗る雑踏を極めた」。明治45年の鮎漁川開きでは、東京の新聞社16社の記者が招待され、1泊後の9日には鮎漁を楽しんで、〆治・小今・一二三という3人の「大姐さん」に見送られ、川船で相模川を馬入(平塚市)まで下り、平塚駅より東海道線に乗車して帰京した。
 大正2年(1913)と大正3年の状況については不明であるが、大正4年(1915)の川開きは、旧来の3旅館主催からかたちを変えて、厚木町商工会主催となった。これは「鮎漁は全町の富源なれば、同町官民合同に川開きを催すが至当なりとの主旨」によるものであった。
 大正4年6月1日(雨天で2日に延期)には、花火大会と灯籠流しが行われて夜の10時に終了した。花火が終った後も厚木の旅館・料理屋は、2次会、3次会の客で賑わい、芸者衆は引っぱりだこで、某料理店では女将が「泣出すなど」のいそがしさであったという。
 さらに大正5年、同6年の6月1日にも行われた川開き花火大会であったが、大正7年(1918)には、経費をめぐるさまざまな意見が出され、中止すべきであるとの報道がなされている。この結果については不詳であるが、厚木相模川での花火大会が、再び「横浜貿易新報」紙上で報じられるのは、大正15年(1926)8月9日の、厚木町有志主催「納涼会」まで待たなくてはならない。

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