今昔あつぎの花街

飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO17 (2001.10.01)       相模川船下り

 

昭和6年の与瀬発相模川船下りと鮎漁旅館料金表(「桂川・秋山川・相模川全河鮎 釣場案内」より)

 厚木をめぐる相模川船下りには2つのコースがあった。1つは相模川上流の与瀬(現津久井郡相模湖町)から厚木まで下るもので、もう1つは厚木を発して相模川河口の馬入(ばにゅう・平塚市)に至る船下りであった。このほかにも、時には相模川を上流から下流に向かう船があって話題となった。
 明治3年(1870)5月20日、イギリス人マックグレーガーは、本国から取り寄せたカヌーで相模川下りを楽しむため、田名村(現相模原市)まで人夫を雇ってこれを運ばせた。田名の吉田屋に1泊した一行は、翌21日、カヌーに乗って相模川を下り、水上から厚木の街並と大山連峰を遠望した写真を撮影している(『神奈川の写真誌』)。また、明治43年(1910)3月には、東京府下八王子町(現八王子市)の機業家久保田商会の百余名が相模川を船で下り、須馬村(現平塚市須賀・馬入)に上陸し、大磯の濤龍館にて昼食をとって町内を遊覧、夕刻の上り列車で帰途についた(「横浜貿易新報」)。
  
与瀬から厚木までの船下り
 与瀬町角屋旅館のパンフレット「風光明媚 相模川下り案内記」によれば、「相模川下りは中央線与瀬駅(現相模湖駅)付近与瀬河岸より小倉(おぐら・津久井郡城山町)迄約5里の間を下るのでありますが、更に舟行四里厚木迄下る客もあります」とあるように、7〜8時間をかけて相模川を厚木まで下る船もあった。
 昭和6年(1931)の「桂川・秋山川・相模川全河鮎釣場案内」を見ると、20人乗の厚木行船の料金は32円。午前11時出帆、厚木へは8里、着船は午後6時半となっている。明治42年(1909)7月には、横浜の原合名会社と高座郡の漸進社(相模原市)の一行75名が津久井郡から相模川を下り、厚木で鮎漁遊船会を開いているが、原合名会社一行60名はその後さらに須賀(平塚市)まで下っている(「横浜貿易新報」)。
  
厚木から馬入までの船下り
 厚木から馬入までの船下りに(1)下町(しもちょう・現旭町3丁目)から出る乗合定期船と、(2)相模橋(現あゆみ橋)付近から随時下る鮎漁客などを送る船とがあった。(1)の乗合定期船は、厚木町(市制施行以前の愛甲郡厚木町)有志が、厚木乗合船共和丸組合を設立し、下町こんにゃく屋を船宿として大正5年(1916)5月より運行を開始した。厚木発は午前8時・同11時・午後2時の3便。料金は厚木から門沢橋渡船場(海老名市門沢橋と厚木市戸田との渡船)まで6銭、田村(平塚市)まで9銭、馬入までは15銭であった(「横浜貿易新報」)。
 (2)厚木の鮎漁に来た客を主に馬入まで送る船は、相模橋付近から船出した。
 明治42年(1909)9月には、「厚木町の名花」〆次・玉八・松子・清子・小六・歌留多という6人の芸者が、10余名の客と共に「秋水に竿さして厚木町より出船し相模川を下り、午後六時頃馬入橋畔に着し」た。一行は人力車で平塚海岸の朝日舘に乗込むと、「一夜を大浮れに浮れ」、翌日は平塚停車場で「貴方や又お近い中にと、甘だれ声で客におしき名残りを告げ」、芸妓連は厚木へひきあげたが、この豪遊は「御盛な厚木紅君(こうくん・芸妓の意)連」として評判になった(「横浜貿易新報」)。
 なお、この豪遊で客と同行した小六をおばにもち、大正5年(1916)に厚木で芸者に出た力弥さんは、相模川下りの船が、戸田で水中の杭に乗り上げてひっくり返り、ぬれねずみとなって、ハコ(三味線)も流れてしまった体験を語っている(「聞き取り録音テープ」)。また、力弥さんは、「私たちは人力車で厚木まで帰って来ましたけれど、船頭さんは大変でしたよ、船を引っぱってのぼるんですから」と語っているが、明治43年(1910)の「鎖夏行 相模川を下る」(横浜貿易新報」)には、馬入からの上り船には「平均4人の船子が力を尽して」河の岸を曳き、「5時間乃至6時間」をかけて厚木に着く「上りの困難」さも紹介されている。
 このような相模川船下りも、大正時代末期から昭和初期にかけて、次々と開通する乗合自動車路線と、神中線(現相鉄線)、相模鉄道(現相模線)、小田急線開業の影響をうけて、急速にその姿を消して行くのである。

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