連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

 NO1(2001.1.1)『散髪於瀧開化姿見』に登場する芸者小花
 『散髪於瀧開化姿見』(ざんぎりおたきかいかのすがたみ)は、明治11年(1878)4月、東京馬喰町(現中央区)の地本錦絵問屋木屋・小森宗次郎から出版された草双紙である。作者は麗々亭柳橋。草双紙とは通俗的な絵入読物のことである。
 甲州無籍の長吉は、秋山平吉と2人で群馬県上後閑村(現安中市)の戸長中島長次郎宅へ押し入り、44円の金を奪って逃走、相州阿夫利山麓の子安(現伊勢原市)でさらに悪事をかさね、大山参りの客でにぎわう厚木の町に至り、近江屋金兵衛という旅籠屋に宿をとった。
 『散髪於瀧開化姿見』には、この長吉が急病にかかり、世話を受けた近江屋金兵衛方で働くうちに、人力車の車夫となってあらわれたかつての悪事仲間平吉と出会い、2人が厚木の造り酒屋柳田杢兵衛の妻お房をそそのかして、470円という大金を奪ったあげく、お房を人力車ごと土堤から川へ投げ込んで一目散に逃げ去る場面が登場する。
 また、先年妻を亡くした近江屋金兵衛の後妻となっていたのが、東京を食いつめて厚木に来た金春の芸者「小花」であった。金春芸者とは新橋芸者の旧称で、幕府の御能師金春太夫の賜地に由来する「金春新道」の芸者のことである。新橋芸者の起源は安政4年(1857)頃といわれている。明治7年(1874)の調査では、東京府下の芸者の総数は1,293人。金春辺には128人の芸者と11人のお酌(一人前の芸者となる以前で玉代が半分の半玉のこと。三味線は絶対弾かない)がいた(『女藝者の時代』)東京の新橋・柳橋などの花柳界には、明治時代から昭和時代にかけて政府高官、要人、政治家らが出入りし、芸者の名声は高まり、しばしば政治の裏舞台ともなった。

柳田杢兵衛の相手をする小花(「散髪於瀧開化姿見」)<飯田孝蔵>

 金春の芸者小花は、はじめ近江屋に寄留して厚木で稼いでいたが、やがて金兵衛の後妻となり、元芸妓という職業がら客あつかいも達者に働いていた。一方、柳田杢兵衛は近江屋にかなりの大金を貸していたため、自分の家のごとく近江屋の奥座敷へ出入りし、酒肴をたびたび運ばせ、やがて金兵衛の目を忍んで酌に出た小花とは怪しい夢を結ぶことになるのである。『散髪於瀧開化姿見』に描かれた厚木での場面を見ると、「むかしにかわらぬ大山参り、大山道中厚木町は群集なして賑やかなる」という表現や、「天王の森」「厚木のはずれに豪家にて酒造をさかんに」なす家があるとか、「近江屋」「柳田」「杢兵衛」など、明治初期頃の状況や地名、また実在した屋号や周辺農村の人物名などが職業を変えて登場する。
このような情景描写を見ると、作者麗々亭柳橋は大山参りにおとずれ、厚木に滞留したのではないかと思われてならない。
 もしそうであったとすれば、当時の厚木の町には、小花のように東京から来た芸者が実際にいたのかも知れない。
 明治17年(1884)の記録では、横町(現厚木市元町)の美奈登屋〆吉、佐々木美佐吉、三代次、〆太の芸妓名があげられている(『厚木の商人』)。
 さらに『皇国地誌』に記載された明治9年(1876)1月1日調査の人口等を見ると、愛甲郡厚木町(市制施行以前の旧厚木町)では200人の寄留女性と「絃妓」8名がいたことが記載されている。
 絃妓とは芸妓のことであり、この場合は特に三味線を弾くことのできる1本(一人前)の芸者のことであろう。また、200人という多くの寄留女性の中には、大山参りで賑わう時期など、芸者まがいの稼ぎをする者も幾人か含まれていたものと思われる。
 いずれにしても、明治9年の厚木の町では「絃妓」を職業とする8人の女性の存在が確認できると同時に「芸妓」たちの生活が成り立つほどに茶屋、料理屋、旅籠屋などが繁盛していた町の情景が伝わって来る。
 中里介山の『大菩薩峠』では、南条力が八王子から荻野山中藩へ向かう途次、いったん厚木へ出て泊まるのがよかろうとすすめられるのも、江戸時代末期の厚木が相模では名の知れた宿場町であったからであろう。


 

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