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人間社会の葛藤
シェイクスピアの戯曲『リヤ王』の中に「人はみな泣きながら生まれてくる」という有名な台詞があります。
リヤ王はグロスター伯爵に向かってこう言います。
「人は皆、泣きながらこの世にやってきたのだ。そうであろうが、人が初めてこの世の大気に触れる時、皆、必ず泣き喚く……生まれ落ちるや、誰も大声を挙げて泣き叫ぶ、阿呆ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」(福田恆存訳・新潮文庫)
赤ん坊は誰でも泣きながら生まれてきます。泣きながら生まれてこない赤ん坊などおりません。ですから、赤ん坊が泣かないと大変です。五体満足なのか、どこか具合が悪いのではないかと不安になります。そんなとき、むかしは産婆さんが赤ん坊のお尻をピチャピチャたたいて様子を見ます。赤ん坊がやっと泣き始めると周囲の人たちはホッと顔を見合わせて安心したのです。
このリヤ王が言った「人は皆、泣きながら生まれてくる」ということは、一体何を意味しているのでしょうか。
人間が泣くという行為は、苦痛や不安、悲しさ、辛さ、恐ろしさというように、人間のマイナスの心、仏教でいえば「悲」の心を表出したものだと思います。「そんな意味なんかないよ」「嬉しい時だって泣くよ」「赤ん坊が泣きながら生まれてくるのは当たり前じゃないか。理屈なんかないんだよ」という人だっているでしょう。
では、「人間は生まれながらにして平等」でしょうか。人間はお金持ちの家に生まれてくる子もいれば、そうでない子もいます。五体満足に生まれてくる子ばかりだとは限りません。障害を持って生まれて来る子もいれば、生まれながらにして病気を背負って生まれてくる子もいます。また、権力者の子として生まれてくる子もいれば、平民の子として生まれて来る子もいるでしょう。戦争や殺戮の中に生まれてくる子もいます。飢饉のため生まれてきても食べるものがなく、薬もなくて死んでいく子も大勢います。つまり人間は生まれてきたときから不平等、不公平な環境におかれるわけで、こうした理不尽なところがあるのが人間社会であり、世の中です。
人間は生まれ落ちたその瞬間から、食べるものや、着るもの、住むところという経済的、社会的な環境に差があります。極端に言えば社長の子で生まれてくるか、貧乏人の子に生まれてくるかでは、その後の人生そのものが大きく異なるのです。これは世の中が不平等、不公平で成り立っているから仕方がありません。
つまり、人間は生まれながらにして不平等で不公平である。資本主義や社会主義、市場経済や計画経済という政治や経済体制、デカルトからカント、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、レーニン、ケインズ、シュムペーター、マックスウェーバー、ガルブレイスなどを持ち出すまでもなく社会思想や政治体制というものは、こうした不平等、不公平をなくしていく手段であり学問でもあるのです。
人間はそうした社会の中で様々な対立や葛藤を繰り広げ、生きていかなければなりません。そこには阿鼻叫喚、無限地獄、愛別離苦、喜怒哀楽など人生のさまざまなドラマがあります。悔しさをバネに生きる人もいるでしょう、人の何倍も努力して成功する人もいます。いくら努力しても報われない人もいます。人生を悲観して自らを死に追いやる人もいるでしょう。笑いながら生きていく人もいますが、やはり泣きながら生きていく人たちが圧倒的に多いと思うのです。
人間は「おぎゃあ」と生まれると、そうした理不尽な人間社会の葛藤の中に、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に放り出されます。だから泣きながら生まれてくるのではないでしょうか。リヤ王は「阿呆ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」と、それを比喩的に表現しているのです。
人間が生きていくことは不平等、不公平を少しでもなくしていく戦いでもあるのです。そこには輝かしい希望もあれば生きていくことができないほどの絶望もあります。人より幸せに生きたいという願望は誰にでもあり、そうした可能性は誰にでもあるでしょう。
確かに「人間には無限の可能性」があります。
それぞれの才能を磨き努力を怠らずに希望を持って生きれば、いつか大願成就することもあります。しかし、この言葉にも嘘があるように思います。人間が生きていくには勇気や努力、意志、忍耐が必要です。しかし、不屈の勇気や不断の努力、強い意志、そして忍耐力をもってしても、人間にはできることと出来ないことがあります。つまり、希望や努力では克服できない「宿命」のようなものがあるのです。たとえば、背の低い人がいくらトレーニングしたからといって、身長が飛躍的に伸びるものではありません。若さを保つためにエステに金をかければ、確かに年齢よりは若く見えるでしょう。でも、老いや死を先へ伸ばすことは出来ても老化や死から逃れることはできません。
人間は自分で自分の生まれ方を決められない
作家の五木寛之は「人はみな泣きながら生まれてくる」という言葉のなかには3つの否定できない真理が含まれていると言っています。1つは「人間は自分で自分の生まれ方を決められない」ということ。2つ目は「人間の一生は日々死へ向かって進んでいく旅である」ということ。そして3つ目は「人生には期限がある」ということです。
1つ目の真理「人間は自分で自分の生まれ方を決められない」というのは、非常な論理です。人間はどの時代、どの国、どの家、誰を親に持つかを自分で決めることはできません。体つきや皮膚の色、才能、個性、遺伝子すらも自分では決定できません。人間は人生の第1歩からして自分の意志を超えた、何らかの力で本人の努力とは無関係に決められてしまうのです。まさに不条理としか言いようがありません。
2つ目の「人間の一生は日々死へ向かって進んでいく旅である」ということも大変つらい真理です。人間は生まれた途端、死へ向かって歩き始めるわけで、人間のゴールが死だということも、これもまた非常な論理だと言ってもよいでしょう。
3つめの「人生には期限がある」ということは、人間は永久に生きられない、いつかは死ぬということです。私も不慮の事故で明日死ぬかもしれません。でも、多くの人は「せっかく生まれてきたのだから病気をしても70、80という平均寿命までは生きたい」と願うのが人情です。もっとも長生きして百歳まで生きられる人がいるかもしれません。しかし遅かれ早かれいつか死ぬことには変わりはありません。つまり人間にとって不老不死などはないということ、これも非常な論理といえるでしょう。
五木寛之は、「人はみな泣きながら生まれてくる」というリア王が放った言葉の意味の中に、こうした3つのどうにもならない真理があることを発見しました。これはまったく恐るべき認識といえるでしょう。
この3つは誰に対しても平等です。お金持ちであろうと、大統領であろうと、貧乏人であろうと、どんな人であれ、この3つの真理から逃れることはできません。人間はこの真理に気づく人もいますし気がつかないままに死んでいく人もいます。ですが、齢を積み重ねると次第にこうしたことがわかってくるのではないでしょうか。私は50歳を過ぎて、やっとこうした真理があることに気が付きました。私はこの真理を理解するのが早ければ早いほどいいとは思っていますが、でも早く理解したからといって、どうにかなるものでもありません。人はみな泣きながら生まれてくることには変わりがないからです。
五木寛之は「人間はこの3つの真理をまざまざと感じ始めた時、唖然として「人生のはかなさややるせなさを感じ、わけもなく深い思いの淵に沈んでしまう。明治のころの人は、それを暗愁(あんしゅう)という言葉で表現した」と述べています。
暗愁とはどういうことでしょうか。テレビを見ていると、大震災や不慮の事故で肉親を亡くした家族に、レポーターが「頑張って」という慰めの言葉をかけるシーンが飛び込んでくるときがあります。
ところがそうした言葉をいくらかけても、気持ちが安らかになるわけではありません。いくら頑張っても亡くなった子どもや家族が戻ってくるわけではないからです。子どもをなくした母親が明るく元気に生きましょうといわれても、明日から明るく元気に生きることなどできるはずがありません。そうした言葉は空虚さ以外なんの意味も持たないのです。そうした時、人間は、せめてそばにいて、「ああ」と深い溜息をついて嘆き悲しむことことぐらいしかできません。そんな力にならないことをして何になるのという人もいるでしょう。でも、「あと3カ月の命です」と宣告された患者に向かって、どんな言葉を発しても、何の力にもなりません。
死期迫った人間には、どんなことばをかけても無力です。「頑張って」という言葉は、慰めどころかむしろ残酷でさえあるでしょう。
仏教に「慈悲」という言葉があります。簡単にいうならば「慈」は「がんばれ」という励ましの意で、「悲」とは文字通りの「なぐさめ」です。悲しんでいる人に、「いつまでくよくよしているの。気を持ち直して頑張りなさい」というのが「慈」で、黙って一緒に涙を流すことで、その人の心の重荷を自分のほうに引き受けようとするのが「悲」です。
「がんばれ」という励ましは、右肩上がりで来た戦後日本の高度成長にふさわしい言葉でした。しかし、格差社会の進行で先行きの見通しが不安になった現在、「がんばれ」という言葉が果たしてどれほどの効果を持つでしょうか。乾いた慈よりも湿った悲のほうが人々を不思議な安心感に誘ってくれる場合があるから不思議です。
4つの苦しみ「生老病死」
今から2500年ほど前、29歳の釈迦は「人はすべて思うに任せぬ条件を背負って生きている」と説きました。この思うに任せぬものとは「生・老・病・死」の4つです。これを「4つの苦しみ」とも言いますが、苦しみというよりは「思うにまかせね」としたほうがピッタリときます。
以前にも述べたように、人間は自分の意志によって親や民族、国家、ましてや時代を選んで生まれてくることはできません。老いていくことを怖れ、不老長寿の薬を求めてもそれにうち勝つことはできません。そして病を得ること、死んでいくことは宿命的といえるほど「思うに任せぬこと」でしょう。従って人生の禍福は転々としてまるで予測がつきません。まさに「人間万事塞翁が馬」なのです。
人間は生まれた時からこの生・老・病・死という4つの苦しみを背負って生きていかなければなりません。私は29歳の時にこのことに覚醒した釈迦を思うとき、まさに天才としかいいようのない釈迦の啓示を感じます。
釈迦が言うようにこの「四苦」はまったく思うにまかせぬもの、自分の意思ではどうにもならないものです。しかし、偶然にも人間として生を受けた以上、S・カルマ氏(『壁−S・カルマ氏の犯罪』安部公房)のように壁になることもできないし、グレゴール・ザムザ(『変身』カフカ)のようにカブトムシになることもできません。この事実をいやがおうにも受け止めていくしかないのです。
人間はこれまで科学や合理主義で、この思うに任せぬことを「思う通りにしよう」と努力してきました。人間の寿命が50歳から80歳になったこと、一部の病気を克服する能力を持つことが出来るようになったことなどは、まさに科学の勝利と言えるでしょう。しかし、これは人間の思い上がりかも知れません。
人間は誰でも病に罹ります。風邪のような軽い病気から心筋梗塞や脳卒中、癌などの生死を分ける重い病気にかかる人など、この世に生を受けて以来大なり小なり病気にかからなかった人はおりません。いわば病は人間の同伴者ともいえるのです。
仏教の世界では人間の生命の中には最初から「404病」の原因が内包しているとされています。人間の体は地、水、火、風の4つの元素から出来ていて、その4つにそれぞれ100の病が起こるとし、もとの4つの元素を合わせて「404病」と考えたものです。それが体の状況や周囲の変化の中で出たり引っ込んだりします。
五木寛之は「病気とはこの内在しているものが、ひょいと顔を出すだけで、たまたま死ぬまで病気が出なかった人はとても幸運だったといえるのです」と述べています。
そう考えると「無病息災」をまっとうできる人間はまずおりません。「一病息災」いや「二病息災」「三病息災」というように、病気と上手にお付き合いしていくこと、共生していくことで、逆に人間は生かされているのではないかと思うのです。
ガン細胞は正常細胞を食べてどんどん増殖していきますが、放っておくとこの正常細胞を全部食べ尽くします。ところが食べ尽くした段階で、自分にも死が待っているという矛盾した論理を保持していることに己自身はまったく気が付いていません。ガン細胞は自分が生き延びることを希望するなら、正常細胞を全部食い尽くさずに残しておかなければならないのに、そうはしないのです。この無知蒙昧で自己コントロールが出来ないというところに、ガンという病気のもつ恐ろしさがあります。まれに、ガン細胞が増殖せずに、3年、5年、10年と延命し、ふつうに生活している人がいますが、恐らくそうした人のガン細胞は、増殖することによる自己破滅という矛盾した論理をガン細胞が本能的に認識しているため、増殖を抑制している結果なのだと思います。
「共生した方が自分も生きられるので得だ」と言う考えです。
とはいえ、ガン細胞のほとんどは無知蒙昧で自己コントロールが出来ません。やがては人間と同じように死を迎えるわけですが、人間の科学をもってしても太刀打ちできないガン細胞だって死ぬんだということを思うと、意外に異なった世界が見えてきます。
解剖学者の養老孟司さんが『死の壁』という本の中で面白いことを言っています。人間の死亡率は何%かというのです。改めてそう聞かれると、ちょっと戸惑ってしまいますが、よく考えてみると、誰でもこれが「100%」であるということに気がつきます。
養老さんは「人生の最終解答は『死ぬこと』だということです。これだけは間違いない。過去に死ななかった人はいません。人間の致死率は100%なのです。ガンの5年生存率が何%だ、SARSの死亡率が何%だと世間では騒いでいますが、その比ではないのです」と述べています。
「そうか100%なのか」
だったら養老さんが言っているように、ガンやSARS、鳥インフルエンザでガタガタと騒ぐことはない。そもそも人間の死亡率は100%なのだから、これとどう向き合い、どう生きていくかを考えればいいのだということになるわけです。
老いも自然の流れ、死も無理に遠ざけることをしなければ、違った生き方が見えてくるでしょう。生・老・病・死を恐れず、この内在するものとどううまくつきあっていくかが人間としての大事な生き方のような気がします。(2006・5・13)
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