厚木の大名 <N09>

烏山藩相模国所領      飯田 孝

烏山城絵図(飯田孝蔵)
 烏山(からすやま)藩は、下野国那須郡烏山(栃木県烏山町)に藩主の居城をおく譜代小藩。居城は烏山城・臥牛城といわれ、城跡は烏山町城山にある。
 この烏山藩の領地が相模国内に設定されたのは享保13年(1728)。時の藩主大久保常春が幕府老中に就任し、役料として一万石が加増されたからであった。
 一万石を加増され、総石高三万石となった烏山藩大久保氏は明治維新まで続くが、飛地として加増された相模国一万石の村々を支配するため、厚木村に代官役所として厚木陣屋を置いた。
 厚木村天王町(現厚木市厚木町)厚木神社北側の相模川沿にあった厚木陣屋は厚木役所ともいわれ、その跡地は市指定史跡となって記念碑が建てられている。
 近世烏山藩の歴史は、天正19年(1591)、武蔵国忍(おし)城主であ
った成田氏長が、豊臣秀吉から3万7千石を与えられて入部したのに始まる。忍城(埼玉県行田市)は、戦国時代、小田原北条氏に属していたので、当初の烏山藩は外様藩であったことになる。
 天正18年(1590)、忍城は石田光成によって攻められ開城するが、この時城主であった成田氏長の家臣成田勝基は落ち延びて流浪、のち林村(厚木市)に居住した。林村で没した成田勝基の二子勝定・吉次は、ともに御家人として徳川家に仕えている(『相模人国記』)。
 しかし、元和8年(1622)、烏山藩成田家は家督争いが原因で改易、元和4年には松下重綱が常陸国小張(茨城県伊奈村)から2万8千石で入部した。
 松下重綱は、寛永4年(1627)までわずか4年の在封で、陸奥国二本松(福島県二本松市)へ移封となった。荻野山中藩家臣松下家は、この松下重綱の家系分家から、さらに分かれた家であるという(『荻野山中藩史料 松下家文書』)。
 松下重綱が移封となった後、藩主は堀氏から板倉氏へと変わるが、寛文12年(1672)5万石で入封した板倉重矩(しげのり)は、京都所司代や老中をつとめた幕府の重臣であった。これ以降、烏山藩は譜代大名領有の地となって、那須氏・永井氏・稲葉氏を経て、大久保氏へと引き継がれることになるのである(藩史大事典』)。
 以下、烏山藩大久保氏歴代藩主を、『寛政重修諸家譜』『下野国烏山藩相模国所領』によって紹介しておこう。
 
大久保常春 延宝3年(1675)、大久保忠高の二男として生まれた。元禄12年(1699)、忠高の領地近江国内1万石を襲封、正徳3年(1713)には若年寄となった。
 享保元年(1716)、徳川吉宗が八代将軍となると、大久保常春に命じて鷹狩を復活、この時の鷹匠頭は、厚木市林福伝寺に茶湯料を寄進した戸田勝房が勤めた。
 享保3年(1718)、常春は近江国内で五千石を、同10年にはさらに5千石が加増されて、領地を下野国内に移され、2万石の大名として烏山城を拝領した。
 さらに享保13年5月には、老中に任じられて1万石が加増され、飛地として烏山藩相模国所領が成立する。
 しかし、病に犯された常春は、老中在任期間わずか120日にして没する。享保13年9月9日、行年54歳であった。
 大久保忠胤 宝永7年(1710)、大久保常春の長男として生まれる。享保13年に襲封、弟傳三郎忠篤に新墾田2千石を分かち与えた。安永8年(1779)、71歳で没した。
 
大久保忠卿 寛保3年(1748)に生まれ、明和6年(1769)27歳で没した。
 
大久保忠喜 延享2年(1745)に生まれる。文化9年(1812)68歳で没した。
 
大久保忠成 天明7年(1787)忠喜の養子となり、嘉永元年(1848)12月12日86歳の高齢で没した。漢詩「厚木六勝」の詩作がある。
 
大久保忠保 嘉永元年(1848)9月5日、父忠成に先立ち58歳で没した。
 
大久保忠美 元治元年(1864)8月20日、45歳で没した。
 
大久保忠順 元治元年(1864)8歳で襲封。廃藩置県にともない烏山県知事となる。大正3年(1914)58歳で没した。

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