2004.09.01(NO57)   淡谷のり子との共演

淡谷のり子との共演(厚木市文化会館)
 大層な桐箱にしまわれたマイクを取り出して、それを音響係のスタッフにマネージャーが手渡す。普通のマイクより幾分大きめに見える淡谷のり子の専用マイクだ。
 「値が張りそうだな」「何百万もするマイクだろうか」
 舞台袖で重昭や竹内暉たちは声をひそめて値踏みする。”ブルースの女王“と言われた淡谷のり子は75歳のこの年、全国縦断公演を決行した。
 「あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでいかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ」
 新聞のインタビューでそう語る淡谷だった。
 昭和57年6月24日、厚木市文化会館を会場に、相模音楽文化協会が主催して、「命ある限りこの唄を」と銘打ったコンサートが開催されたのだ。そこにゲストとして「厚木ハーモニカ・カルテット」が招かれた。
 重昭が複音とクロマチックハーモニカ、平井武がバスハーモニカ、大矢博文がコードハーモニカ、それに竹内暉がホルンハーモニカで加わった。重昭は人気の歌手との共演に心躍らせ、「淡谷さんのコンサートをなんとか盛り立てたい」と練習にも力を入れた。何ヶ月も前から毎週土曜日の夜8時頃から始めて、終わるのはきまって明け方だった。
 当初、淡谷の代表曲「別れのブルース」をハーモニカで伴奏してくれとの要請が、淡谷側からあって当日の舞台稽古に臨んだが、淡谷のテンポの揺れは独特で、その歌いまわしに合わせるのはなかなか難しい。何度か試みたが、重昭は意を決して「われわれには伴奏は務まりそうにありません」と淡谷に申し出た。むしろ歌はピアノ伴奏でやり、われわれは別個にハーモニカ演奏を、と提案した。淡谷は嫌な顔ひとつせずに、「それではそうしましょうか」とすんなり了解してくれた。重昭は淡谷のり子の寛大さを頼もしく感じた。
 ピアノ伴奏は専属の男性ピアニストがついた。譜面置きには曲名とイントロのたった1小節の譜と、あとはメモ程度にフォルテやピアノといった強弱記号が記されただけの、ほとんど白紙に近い紙が置かれている。あまりにも簡略化された譜面を盗み見て竹内暉は仰天した。
 当の淡谷は、舞台袖までは足の不自由も手伝って足取りはおぼつかないが、ひとたびステージに出るとしゃんと背筋が伸びる。そのプロ根性には重昭も大矢も舌を巻き、驚嘆の面持ちで淡谷の姿を見つめた。
 歌声は太く、芯のあるよく通る声で艶もある。ピアノにもたれかかるようにして「恋心」「リリー・マルレーン」「ポエマ」「ラ・クンパルシータ」などの曲をたっぷりと歌い上げる淡谷のり子はとても75歳とは思えない若々しさだ。
 本番までの合間に重昭は楽屋で淡谷と親しく話すことができた。自分の母親とは1ヶ月違いのまったく同い年だった。
 「凄いですね、うちの母親よりうんとお若く見える」
 淡谷のり子はうなずいてやさしい笑みを浮かべた。
 ステージ第2部の後半、いよいよ「厚木ハーモニカカルテット」が登場した。客席には森本恵夫や川上桂二郎等の姿もある。「道化師のギャロップ」「枯葉」「セントルイス・ブルース」「ラ・クンパルシータ」の4曲を合間にハーモニカの紹介も織り交ぜて演奏し、喝采を浴びた。
 重昭たちは別れ際、淡谷のり子から色紙をもらった。そこには「美しき人     
すみれ花かご もとめゆく」と書かれていた。生涯現役を貫いたブルースの女王の矜持をほのめかす言葉だった。

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