2004.02.15(NO45)  シベリアの地で吹いた「異国の丘」

日本人墓地の前で演奏する重昭
 重昭たち訪ソ文化使節団の一行もきょうで帰国する日となった。昭和49年5月16日、午前中に荷物を整理して、正午にホテルを出るとハバロフスク日本人墓地に向かった。
 先の大戦でシベリアに抑留され、極寒の地の過酷な労働と栄養失調などで6万人を越える人々が死に、ここハバロフスクの日本人墓地にも191人の抑留者たちが埋葬されていた。
 使節団の一行のなかにも、ハバロフスクに抑留されていた人が二人いて、死と隣り合わせの当時の話を重昭に語ってくれた。
 昭和20年8月8日、ソ連は敗色濃い日本に対し、当時交わされていた日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦を布告、満州に攻め込んだ。そして15日、日本はポツダム宣言を受け入れて終戦となった。満州国建設は幻と化し、武装解除された日本軍兵士たちは仮収容所へと集められた。
 その後8月23日付けでクレムリンによって発令された『日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について』という国家機密文書によって、”トーキョー・ダモイ“(東京に帰れる)とだますようにしておよそ60万人の日本人が満州から貨物列車に乗せられシベリアに連行される。連行された日本人はソ連全域に置かれたラーゲリと呼ばれる強制収容所に監禁され、貧しい食事と雪中の森林の伐採や鉄道の敷設などノルマの厳しい労働に使役されたのだった。
 不当にも10年近くもシベリアに抑留され、その結果1割近くもの人々が日本の地を踏むことなく極寒の地に倒れた。苦しみや辛さにこぼれる涙さえ凍ってしまう過酷な仕打ちを、なぜ受けねばならなかったのだろう。抑留者たちの運命に思いを馳せて、重昭は目頭が熱くなるのを感じた。
 墓地はホテルから20分ほどの場所にあって、外周を鉄柵で囲われていた。ところどころ雑草の生えるなかに墓はセメントで細長く枠取られていた。それがゆったりとした間隔でいくつも並んでいた。
 一行は黙とうをしてカーネーションの花を供えた。名も知れぬままに葬られた人たちもたくさんいた。重昭たちは墓前で演奏をすることにした。 尺八の二重奏で「明暗」、次いでハーモニカと尺八で仲村洋太郎がつくった「遺児とその母に贈る曲」、そして最後に重昭がハーモニカで「異国の丘」を吹いた。吹きながら心のなかで歌った。そして心のなかで泣いた。
 「異国の丘」はもともとは、敗戦後ウラジオストクで捕虜となり抑留体験もした吉田正が、独学で作曲を覚え、セメントの袋のしわをのばしながら「大興安嶺突破演習の歌」としてメロディを書きつけた曲で、その後「昨日も今日も」という替え歌となって抑留者たちの間で歌われた歌だった。「異国の丘」として世に出るまでには次のようなエピソードがある。
 昭和23年、NHK「のど自慢素人演芸会」にひとりのシベリア復員兵が出場した。「10番、中村耕造!『昨日も今日も』を歌います。この歌は自分が抑留中、戦友たちとよく歌った歌です。我々はこの歌によって励まされてきました」と口上を述べて歌った。敗戦から3年、戦争の傷の癒えない人々の誰もが固唾をのんでこの歌を聞いた。その年9月には詞が手直しされ、「異国の丘」としてレコード発売され大ヒットしたのだった。この時、当の吉田はまだシベリアから復員しておらず、自分の曲がレコードになっていることなど知らなかったという。
 『今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る……』
 演奏を終えてしばらく、重昭は墓の前に立ち尽くした。やさしい陽射しのなかで、心地よい風が木立の葉をかすかに揺らしていた。
 「安らかに眠れ」 精いっぱいの重昭の祈りにも似た思いだった。
 午後3時40分、予定より15分遅れで重昭たち一行を乗せた飛行機はハバロフスク空港を離陸し、新潟へと向かう。わずか8日間の短くも長い旅は終わった。

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