2002.02.15(NO4) 嬉しいプレゼント

県立平塚農業学校入学の日に母と

  昭和12年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争の戦火も拡大の一途をたどり、人々の心に重苦しい空気がのしかかる時代だった。
 それまで知識人や学生のたまり場としてにぎわったカフェの隆盛も、コーヒー豆の輸入規制によって次第にしぼんでいかざるを得なかったし、「のらくろ」や「冒険ダン吉」などの漫画や付録で人気を集めた『少年倶楽部』も、用紙の高騰と節約のため、付録は中断されることになった。 
 また、四日に一曲の新曲を吹き込むほど人気のあった東海林太郎に代表されるように、庶民の楽しみとしてのレコードが売れる一方で、渡辺はま子の「忘れちゃいやよ」や淡谷のり子の「別れのブルース」が発禁処分を受けるなど国家の統制も日ごとに増しつつあった。
 新聞で募集された戦時歌謡の当選歌もレコード化(A面に「進軍の歌」、B面に「露営の歌」)され、政府もこれを大いに宣伝、人も物も、戦争へと動員される暗黒の時代のはじまりだった。
 相模川の土手で聴いたハーモニカの音色。「あの青年のように吹きたい」、そんな思いを抱きつつ、10歳になったばかりの岩崎重昭少年は、やがてひとりの青年と出会うのだった。
 彼の名は溝呂木といった。溝呂木は、パイプハーモニカの考案者としても知られる綿貫誉が主宰する綿貫バンドのメンバーだった。このバンドは小田原を拠点にする当時の著名ハなーモニカバンドのひとつでもあった。
 重昭の近所のラジオ屋のせがれや大工、神主の息子ら6、7人で溝呂木青年の手ほどきを受けることになり、新高下駄屋の二階に集まった。ハーモニカを2本持って吹く半音奏法を目の当たりにしたのもそれがはじめてだった。だが、しっかりとしたメソッドがなかったせいか、この集まりは一年足らずで解散となった。
 昭和14年春、重昭は家業を思い、父親の意を汲み取るように県立平塚農業学校に入学した。それまでおじさんから借りたハーモニカ1本で、何でも吹いていた重昭だったが、ようやく母チカが入学祝いに新品のハーモニカを買ってくれた。それは日本楽器製造株式会社製の流線型のハーモニカ(流線型は新しいデザインとして電車や家電にも大流行した)で、2円20銭もする高価なものだった。普及トンボが80銭で買える時代のこと、まさに夢のような母からのプレゼントだった。
 重昭はピカピカに光るきれいなハーモニカを手にした嬉しさで、日がな一日ハーモニカを吹きまくった。
 農業学校の3年生になった頃には、清水校長の実弟、清水武夫が学校のハーモニカ合奏団の指導にやってくるようになった。音大出の清水はハーモニカの上手な人だった。ハーモニカを大きく咥え、舌を一気に離して和音を ”ザッ “と出すベース奏法を、練習の合間に教えてくれたのも清水だった。
 合奏団のメンバーは総勢16、7人で、ハーモニカの他にアコーディオンやギターも加わる編成だった。
  ”オーケストラシリーズ “と称して作られたホルン、コルネット、オーボエ、ピッコロなど音色や音程の違うハーモニカがある中で、重昭が担当したのはクラリネットと呼ばれるシングルリードのハーモニカだった。 

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