2003.08.01(NO32)  ラリー・アドラー来日コンサート

来日したラリー・アドラー(昭和30年羽田)
 昭和30年5月11日水曜日、その日東京の都心は朝からよく晴れて、気温も27度まであがり真夏を思わせる陽気だった。
 夕刻とはいえまだ昼間の熱気が冷めやらぬまま一帯を領している。日比谷公会堂前には今回で2度目の来日となるクロマチックハーモニカの世界的名手、ラリー・アドラーの演奏会が始まるのを待って、6時半の開演まで小1時間もあるというのにすでに多くの人が並んでいる。そこには、後に「厚木ハーモニカトリオ」を結成する重昭や大矢博文、平井武をはじめ宮田東峰や川口章吾、佐藤秀廊らの姿もあった。
 後年“キング・オブ・ハーモニカ”と呼ばれたラリー・アドラーは1914年、アメリカのウェスト・バージニア州バルチモアに生まれた。決して裕福な家庭とはいえなかったが、彼が12歳のとき、両親を説き伏せて音楽学校のピアノ科に入学。ところが楽譜を学ぼうとしない彼に、「矯正の余地もなく、音楽的な耳が欠如している」として退学させられたのだった。それからは独学でピアノとハーモニカを学び、13歳のとき新聞社が主催するハーモニカコンテストに参加。他の出場者がフォルクローレ
やチャールストンを演奏するなかで、彼はベートーベンの「ト長調のメヌエット」を演奏して優勝、一躍注目を浴びることになった。
 14ヵ月後、彼はハーモニカと7ドルを持ってニューヨークに赴いた。大都会に安アパートを借り、窓々の下でハーモニカを演奏して歩いたりする生活を続けた。やがてクラブや映画のバック音楽などの仕事にありつけて徐々に人々に認められていったのだった。その後ロンドンでの仕事が決まり、イギリスへ渡ることになる。
 ロンドンでは大成功を収め、彼のおかげでハーモニカの売り上げが20倍にも増えたともいう。ファンクラブもイギリス全土につくられ、大衆もイギリスの主要な音楽家も彼の演奏に熱狂したのだった。当時、作曲家のウィリアム・ウォルトンは「世界における音楽の若い天才といえばユーディー・メニューインとラリー・アドラーの二人だけである」と言ったという。
 日本では昭和11年以降、コロンビアから「ハーモニカと弦楽及びピアノの為のロマンス」、「バッハが町へやってくる」、「誰かが私をみつめている」などのレコードが発売され、ハーモニカファンの間でラリー・アドラーの名は注目されつつあった。
 重昭も博文もラリー・アドラーが初来日した昭和26年のコンサートには出向かなかったのだが、まだ学生だった平井武は同じ日比谷公会堂で開催された1回目の演奏会も聴きに行っていた。
 この日のプログラムはバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」から始まってバッハの「ホ長調パルティータより ガヴォット」、パーセルの「デイドの告別より アリア」、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」や「牧神の午後への前奏曲」、フォーレの「夢のあと」レクオーナの「マラゲーニャ」、エネスコの「ルーマニア狂詩曲第一」、ビゼーの「カルメン幻想曲」などだった。
 山田和男が指揮するプロアルテ管弦楽団と兼松信子のピアノ伴奏に乗せて、華麗なテクニックを駆使して、繰り出される多様な音色に聴衆は固唾を呑んで聴き入った。重昭も博文も武もこれまで聴いたことがないクロマチックの音に圧倒され、変幻自在に変化する口や手の動きに驚きを覚えた。
 一曲終わるたびに湧き起こる万雷の拍手。会場は興奮のるつぼと化していた。

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