2003.01.01(NO18)  白木秀雄とハーモニカ

白木秀雄
 戦争の傷跡も癒えつつあった昭和24年、歌の世界では映画の主題歌ともなった「青い山脈」や「銀座カンカン娘」、平和への祈りをこめた「長崎の鐘」、美空ひばりのヒット第1号となった「悲しき口笛」、NHKのラジオ歌謡で好評を博した「さくら貝の歌」や「あざみの歌」、そして「夏の思い出」などが現れた。
 そんな時代のなか、全日本学生ハーモニカ連盟が主催したコンテストで優勝した竹内暉や甲賀一宏たち寒川小学校のハーモニカバンドは、ユネスコの招きで国会議事堂に赴き「童謡組曲」を演奏することとなった。
 冬のその日は折からの大雪で、一面銀世界。四ッ谷駅で迎えの車を待つ間も吐く息は白かった。7人のバンドのメンバーのほかに重昭や竹内の両親も付き添った。初めて見る国会議事堂の、通路にどこまでも敷きつめられた真っ赤な絨毯は、外の雪とは絶妙なコントラストでまぶしく目に焼きつく。
 天皇陛下の控え室の豪華さや議事堂の天井のステンドグラスの美しさにも3年生の竹内は驚嘆した。
 竹内や甲賀たちへの優勝の ”ご褒美 “はさらに、春休みに2泊3日で浜松にある日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)にご招待というものだった。甲賀は小学校の卒業式で総代をつとめることになっていたのだが、これをすっぽかして浜松へ。重昭も指導者として付き添いで同行した。
 広い工場では砂の型に金属を流し込んで、ボディの部分を作り、それにやすりをかけてグランドピアノを組み立てる工程や、ハーモニカが組み立てられて行く工程などを見た。女工さんたちの手によって1枚1枚のリードが素早く取り付けられる。その器用さに重昭は感心した。
 翌日はNHKの浜松放送局に赴き、一堂に会した東西のコンテスト優勝者たちがそれぞれの腕前を競う模様も収録され、4月1日、午前10時10分から学校向けの番組としてラジオの電波に乗った。重昭も独奏で1曲演奏した。この招待旅行には神田の錦城高校のハーモニカバンドに在籍する17歳の柏倉秀康もいた。柏倉は後に白木秀雄と名乗り、高校卒業後東京芸大の打楽器科に入学し、在学中よりブルー・コーツに参加。天才ドラマーと目される逸材だった。
 昭和33年にはピアノの世良譲やアルトサックスの松本英彦、トランペットの中野彰、ベースの栗田八郎らと白木秀雄クインテットを結成、ファンキーながらも流麗なフレージング・センスを持つプレイヤーとして、日本のモダン・ジャズの黄金時代を築くのだった。
 その後ベルリン・ジャズ・フェスティバルにも日本人として初めて招かれるなど、高い評価を得た白木だったが、女優の水谷良重と結婚するもやがて離婚。将来を嘱望されながらも39歳の若さで夭折、新聞でも大きく報じられた。アパートの一室での死は謎も多く自殺ともいわれている。60年代初頭のモダン・ジャズの歴史に輝かしい足跡を残した白木秀雄の原点がハーモニカにあったことは興味深い。
 重昭は銀座の喫茶店でにこやかに歓談した日のことを思い出す。まだ白木と良重が仲睦まじい頃、銀座で二人に出くわしたのだった。錦城高校時代に川口章吾の代役で数回、ハーモニカバンドの指導に行ったことがあった。懐かしい日のことや近況を笑顔で語る白木とその横でやさしくうなずく水谷良重の表情。つい昨日のことのようでもある。

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