厚木の大名 <N034>

養蚕要略       山田不二郎

「養蚕秘録」に載る江戸時代の養蚕の図(『日本農書全集35』から転載)   養和2年(1182)、飯山の金剛寺が起こした訴訟文書に「蚕養」の記事があることが『吾妻鏡』に載る。絹の原料となる生糸は、カイコガ(蚕蛾)の幼虫=蚕を桑の葉で飼育し、その蚕が作った繭からとれる糸である。日本では古代から養蚕が行われており、この「蚕養」の記事は厚木市域における養蚕に関する初見資料である。平成16年現在、厚木市域の養蚕戸数は9戸を数えるだけであるが、かつては非常に養蚕が盛んで、昭和55年(1980)の統計による厚木市域の繭生産量は、神奈川県全体の三分の一近くを占めていた。

荻野山中藩の所領に現在の相模原市下溝にあたる高座郡下溝村がある。相模原市域も養蚕が盛んな地域であった。相模原市域の養蚕に関する最も古い資料は、宝永2年(1705)の「当麻村鑑」に書かれた「蚕村中ニテ女之稼ニ仕、大積金百両内外売申候」の記事である。繭の売上げに関してはこのほか、享保13年(1728)「大島村村鑑」の「金三百両余」、宝暦10年(1760)「田名村明細帳」の「五百五拾両程」の記事が知られている(『相模原市史』第5巻)。三村の記事は、「村中」で行われていたことと「女」の稼ぎであったことが共通しているが、女性の仕事とはいえ田名村の年間五五〇両の売上げは相当の額であったと思われる。
下溝村は享保3年(1718)、初代藩主大久保教寛が相模国内に加増された所領の一つである。先の三村と同じ相模川左岸の台地に立地する畑作中心の村であり、養蚕も盛んであった。この下溝村の旧家に「養蚕要略」と題する写本が残されていた。表書きによると「殿様初御入部」をうけて、文化2年(1805)3月に出された触書を名主孫兵衛が書き写したものである。「殿様」とは寛政8年(1796)に所領を継いだ6代藩主教孝である。この触書は、教孝が家督相続後に行った初めての領内巡見がきっかけとなったらしい。
本文末尾の記述によると、この巡見は養蚕の最中のことであった。他領の村を通行すると家々には蚕沙(さんさ。蚕の糞や食べ残しの桑枝で肥料になる)が干されていた。見ると中には緑色の桑葉や小枝が多く混じるものがあり、飼育の仕方が粗略と思われたのであった。養蚕は蚕が孵化してから1か月余で繭になり、短期間で現金収入を得ることができる。反面、天候など様々な条件が収量を左右した。すなわち、売上高に直接影響するものであり、養蚕は温湿度や飼料の桑、蚕の病気など様々な点に気を配る必要があった。この見分は他領のことであったが、荻野山中藩としても自領における養蚕指導の必要性が認識されたのであろう。
「養蚕要略」は、蚕の性質、蚕種の取り扱い、孵化から成虫までの飼育法(例えば桑の管理や与える適期・量)、温湿度や蚕に有害な物質についてなど、養蚕に関する飼育法や注意事項を50か条にわたって細かに述べている。興味深いのは「わかん(和漢)のかい(飼い)方、ものしり(物知り)し人のためし(試し)こころみ(試み)たる事ども」を「あらましに書写し」たと記している点である。
江戸時代の養蚕書は、元禄15年(1702)の『蚕飼養法記』を初めとし、幕末の慶応3年(1867)までに約100冊が著され、または出版されている(『日本農書全集35』)。「養蚕要略」はこうした養蚕実践家の指導書を参考にしたと思われ、相模原市の郷土史家、故座間美都治は上州渋川(現群馬県渋川市)の人、吉田友直が寛政元年に著した「養蚕須知(しゅち)」であると考察している(『相模原農村の諸相』)。
 その詳細をここで述べる余裕はないが、「養蚕要略」は財政窮乏の中にある荻野山中藩が所領の農家経済の向上を期し、養蚕の奨励と技術改善を意図して編述した指導書であったと思われる。 

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