厚木の大名 <N031>

武鑑に見る荻野山中藩      伊従保美

文政8年(1825)頃の武鑑(飯田孝氏蔵)
 大名・幕府役人の名鑑である「武鑑」に掲載された荻野山中藩大久保氏について見てみよう。武鑑の典型である半紙半切大の四冊本、一巻目に「大久保」の系図がある。一巻目は十万石以上の大名が掲載されており、石高十一万三千石余の小田原藩大久保氏の支藩である荻野山中藩はこの巻に見える。
 大久保氏系図によると、本姓宇都宮・本国三河で、その祖は大久保五郎衛門忠俊弟の忠員であり、その後忠世・忠隣・忠常・忠職と続き、次の忠朝の子に荻野山中藩祖教寛の名がある。

 系図に続いて小田原藩大久保加賀守の記載部分があり、次に荻野山中藩大久保出雲守、さらに烏山藩大久保佐渡守の記載へと続く。
 文化八年(1811)刊の千鍾房須原屋茂兵衛蔵版「文化武鑑」に掲載されている荻野山中藩主大久保出雲守教孝の内容について紹介する(厚木市教育委員会蔵)。
 家紋は丸に古文字の大文字。小田原藩の定紋にある古文字の大の字を取っていると思われる。
 上屋敷は大手門から二一丁の小日向新坂(東京都文京区)、下屋敷は牛込御細工町(同新宿区)にあり、席次は菊之間詰。菊の間とは江戸城本丸表座敷の一つで三万石以下の譜代大名・大番頭などの詰所である。
 出雲守教孝は、家督を寛政八年(1796)十一月に継ぎ、官位は朝散大夫(従五位下)、内室は大久保加賀守忠眞妹。参府は毎年八月、御暇は毎年二月。四季に将軍へ献上した時献上(ときけんじょう)は正月三日が御盃台・竹に藪柑子、九・十月は薯蕷(しょよ=ナガイモ)、十一・十二月は蜜柑、在着御礼には干鯛となっている。嫡子欄は無記名。道具印は、駕籠先の槍は黒ラシャ、押駕看板は地が黒で紋は黄色、ほかに纏・法被が描かれている。
 菩提寺は天台宗の教学院であり、小田原藩・烏山藩と同じである。石高は一万三千石で、在所は相州愛甲郡荻野山中、江戸からの距離は二十里余。
 以上は武鑑上段の記述であるが、下段には家臣名として、横山兵右衛門・加藤孫兵衛、年寄安西栄八・斎藤佐太夫、側用人横山兵右衛門、用人松下蔵人・柴田与一右衛門、御城夫安西栄八、添役安西佐三郎、附斎藤佐太夫の名が見える。
 これより後、文政八年(1825)頃の武鑑(飯田孝氏蔵。図参照)で同様にみると、役職に大坂定番と記載されていることが相違している。『徳川実紀』によると、六代藩主教孝には文政四年十二月大坂定番に赴くにより金三千両の恩貸があり、その後文政五年二月十五日赴任の暇乞いをしている。
 大坂定番は大坂城を警護するために設置された幕府の軍事組織「大坂在番」の一つである。老中支配で、京橋口と玉造口定番の定員は二名、一・二万石の小諸侯から選任され任期は定まっていなかった。与力三十騎・同心百人が付属し在番中は役料として三千俵と屋敷も城内外に支給された。
 当時は小田原藩主大久保忠眞も老中の一人であった。
 もう一点の違いは、嫡子欄に記載があることで、大久保右近将監教業(のりなり)の名がある。道具印の徒の先の槍は、教孝と形は同じだが色が異なる。この教業は藩主を継ぐ事は無く、文政十三年八月に没した。そして天保武鑑には嫡子大久保金五郎とある(『荻野山中藩』)。後の教義である。
 この外には下段の家臣名に相違があるので以下に列挙する。加藤孫兵衛・横山兵右衛門、年寄松下蔵人・加藤右源次、側用人は記載なし。用人横山吉右衛門・安西作三郎・天野五郎兵衛・村上傳十郎、附安西又六、御城夫安西作三郎、添役奥村綱次の名が見える。このうち松下蔵人は文政十二年大坂定番に供奉し京橋三軒屋敷で死去している(『松下家文書』)。      

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