厚木の大名 <N017>

御用金           伊従保美

文政5年12月御用金二千両調達趣意書<部分>(『厚木の歴史資料展 商人文化を訪ねて』)
 御用金は規定の年貢以外に臨時に御用商人等個人に対し賦課する金銭である。
 文政5年(1822)、烏山藩の家老らは江戸藩邸から厚木役所に出向、溝呂木孫右衛門・高部源兵衛・清水儀右衛門ら十七人の厚木村有力商人に対し二千両の御用金を申し渡した。 この御用金に関して、天保2年(1831)、厚木を訪れた渡辺崋山は『游相日記』に次のように記している。

 烏山藩の政事は甚だ苛
 酷で人情皆怨怒を含む、
 近頃糠粃乾鰯の仲買人
 十家を定め、運上を取り、
 又御用金を命令し、民の
 肥沃な土地を奪う、一挙
 二千両もの御用金を出
 すも唯厚木のみ
 崋山は厚木の商人が一度に二千両もの御用金に応じ得たことに深く感じ入り、このような大金を出すことのできる厚木の繁栄ぶりに目を見張った。
 烏山藩大久保氏は三万石を領する。その内二万石が野州領、三分の一の一万石が相州領であった。相州領は野州領に比べ、飛地で石高は少ないとはいえ、藩財政上に占める比重は非常に高かった。
 烏山藩の勘定方役人は厚木役所の溝呂木氏に対してこう言っている。
 われら両御領分(野州
 領・相州領)を人の体に
 例えると、首と腹は江戸
 屋敷、上々様御家中なり、
 野州は左の手足なり、相
州は右の手足なり、今左の手足不随してきかず、拠所なく右の手足、左の手足の利かざる所を助け骨折り候、左利かざるは右の為には一切成らず、体が疲労しては、左右手足ばかり、生きる道理なし(『相模原市史』二)
頼るべきは健全な「右手足」である相州領のみであった。
 以下残された資料から御用金賦課の一端を見てみよう。
 厚木の商人高梨与左衛門へは文化8年(1811)の三十両をはじめ、天保3年(1832)には三百両など、嘉永3年(1850)までに八度にわたり六百四十六両余を課している。
 文政13年には、多額な御用金とは異なるが、毎日一軒毎に縄を一房ずつなって上納する「日掛縄」を命じた。夜なべ仕事までとられる貧しい農民には極めて重い負担になったであろう。
 それ以後も苛酷な賦課は続き、天保11年、藩は溝呂木九左衛門を江戸屋敷に呼び、藩主直々に御用金調達を依頼した。これに対し溝呂木氏は冥加金(献金)千両を上納し、藩は三十人扶持を与えた。
 さらに安政5年(1858)には野州領・相州領・厚木の商人五十三人に対し実に一万四百五十一両という莫大な負担を強いた。この時も溝呂木九左衛門・高部源兵衛へは金千五百両ずつ課され、天然理心流師範高部太吉は五十両・斎藤鐘輔も五両を上納している(『厚木市史』近世資料編(2)村落1)。
 こうした御用金は返済されたのであろうか。田名村(相模原市)では明治4年(1871)、旧藩の調達金未返済分として元利とも二千六百五十一両を新政府に書き上げている(『相模原市史』二)。
 『游相日記』にある、崋山を「愕然ト驚」かせたという酒井村(厚木市)の侠客、駿河屋彦八の次の言葉は当時の相州領農民の実感ではないだろうか。「今の殿様にては慈仁の心少しも無く、隙を窺い収斂を行う、殿様を取かえたらんこそよかるべしと思う也」。     

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