厚木の大名 <N012>

烏山藩大久保家墓所・教学院      山田不二郎

烏山藩大久保家歴代墓碑(世田谷区・教学院)

 
東京都世田谷区太子堂。東急世田谷線三軒茶屋駅を降り、北西にすぐの閑静な住宅街の中に教学院はある。
 教学院は天台宗、山号竹園山、寺号は最勝寺。境内には、東都五眼不動の一つ目青不動を安置する不動尊堂がある。この教学院は、もとは青山南町(現南青山三丁目)にあったが、太政官布達により明治42年(1909)から44年にかけて当地に移ったという(同寺のしおり『東京都社寺備考』)。境内の右側が墓地であり、ここに相模国小田原藩・同荻野山中藩・下野国烏山藩の藩主であった大久保家三家の墓所がある。

 大久保氏は徳川家康の関東移封に従い、大久保忠世が小田原に入封。子忠隣の時に一時改易となったが、曾孫忠朝が再び入封した。忠朝は正徳2年(1712)に卒し、教学院に葬られた。小田原・大久保家は日蓮宗であったが、貞享4年(1687)に改宗、菩提寺を教学院としていた(『東京都社寺備考』)。この忠朝の次男が荻野山中藩の藩祖教寛である。教寛は元文2年(1737)に卒して教学院に葬られ、以後代々の墓所となった。
 さきの大久保忠世には九人の兄弟があった。その弟の一人、忠為の後裔が烏山藩の藩祖常春である。常春の父忠高は元禄15年(1702)の卒。やはり教学院に葬られ、烏山・大久保家もまた、教学院を菩提寺としてきたのである。
 三家の墓所は墓地の西側にあり、その広さは全体の半分近くにもなろうか。うっそうとした木立の中に大きな墓碑が建ち並び、やや荒れた感はあるが大名家の墓所たる様を呈している。
前側の約二分の一が、最も大きな藩であった小田原・大久保家の墓所である。その奥約三分の一が荻野山中・大久保家の墓所である。
 そして、両家に挟まれた一画が烏山・大久保家の墓所となっているが、ここには烏山藩藩主の墓碑はない。ここにあるのは藩主の子や兄弟姉妹らの墓碑と思われるが、詳しい関係はわからない。
 烏山藩藩主の墓碑は、大久保三家の墓所と一般墓所の境の一区にあり、ここに七基の墓碑が並んでいる。
「下野国烏山藩主歴代墓碑」と題される一番左の墓碑正面には、烏山・大久保家の第一世とする忠知(正保元年(1644)没)以下、二世忠高、三世常春 (藩主第一代)、四世忠胤(同二代)、五世忠卿(同三代)、六世忠喜(同四代)、七世忠成(同五代)、八世忠保(同六代)、九世忠美(同七代)、十世忠順(同八代)、十一世忠春の歴代当主とその妻の法名・没年月日が刻まれ、裏面には烏山・大久保家の由緒が刻まれている。平成5年(1993)、第十二世大久保忠訓氏と弟忠良氏が建立したものである。
 左から五番目にある大きな墓碑が藩租大久保常春の墓碑である。基壇から宝珠上端までの高さ約2.8mを測る。正面中央には「故執政高門院藤公墓」と刻まれ、その右側に「従四位下佐渡守大久保氏」、左側には「享保十三歳戊申九月九日捐館」と刻まれている。(※捐館(えんかん)高貴な人の死去をいう語(『大辞泉』)。 
 忠春は享保13年(1728)5月7日、幕府の最高職である老中に任ぜられ、同時に相模国に一万石を加増された。しかし、同年8月に病を得、9月9日に没したのであった。法名は高門院殿円枢妙義大居士。
 この二つの墓碑の間にあるのは、二代藩主忠胤(安永8年(1779)卒)、三代藩主忠卿(明和6年(1769)卒)、五代藩主忠成(嘉永四年(1851)卒)の墓碑である。
 教学院にある烏山・大久保家の藩主の墓碑はこの四基であり、他の藩主の墓碑は知られない。     

「厚木の大名」websiteの記事・写真の無断転載を禁じます。
Copyright 2004 Shimin-kawaraban.All rights reserved.