風見鶏

1979(昭和54年).1.1〜1979.12.15

  出口のない世界(1979・1・1)
                                              
 あけましておめでとうございます。昨年この欄で「現代は出口の見つからない、自閉症的社会」と書いた。今年は一体どうなるのであろうか。年頭に立ってめでたいこと、すばらしい夢などを書いてみようと思ってもどうもあまりパッとした材料が出てこない▼「サバイバル」という言葉がある。“生き残る”あるいは“助かる”という意味で、これからの社会を示す「キーワード」となりそうだ。円高不況、低成長、失業者増大、資源インフレ、高齢化社会、食糧問題など、どこを向いてもバラ色とはいえない厳しい条件が待ち受けている。まさに「サバイバルの時代」である▼また、失われていく地方自治、行政の効率化、コミュニティー構想など地方自治をとってもしかりである。いささか大袈裟であり当たり前といえばまたこれまた至極当たり前である▼しかし、このサバイバルの政治、経済を解くカギはこれまでのように一筋縄ではいかないというのが現代であろう。80年代を称して「低成長と中道革新の時代」と占う学者がいる。すでにそのきざしは見えており、地方議会においてさえも「連合の時代」が確実に到来しつつあるようだ▼中央は中央、地方は地方の守備範囲があろう。しかし、中央政治と同様に地方自治のあり方もまた問われなければならない。その意味において今年の統一地方選挙は、80年代の地方政治を占う1つの焦点となる。多難な1979年である。

  ハンディキャブ(1979・1・15)

 相模原市の引用になって恐縮だが、同市ではこのほど「福祉バス」を運行させた。重度身体障害者の買い物や通院に、車椅子のまま乗れる自動車である。県下では横浜市が実施しているが、団体の会合や催し物の参加だけに限られている。福祉行政はとかく老人福祉が先行してしまい、身障者福祉は後回しになりがちだ。相模原市の福祉バスは身障者の日常生活の手助けをするもので、文字通り県下で1番の先行行政といえる▼このバスの定員は15人。車椅子5台のほか、単身障害者や介護人ら八人が乗れ、これに運転手と助手が1人づつ加わる。乗降口は車の後方、車椅子を乗降させるリフトがついている。申し込みは10日前というから、緊急の場合に使えないのが難点だが、通院など日常生活の足として大きな期待が寄せられている▼民間のボランティアでは1年ほど前、厚木市内で石材業を営む吉田和男さんが、自費でハンディキャブを購入、身障者の無料送迎を始めた。県下ハンディキャブの第1号車「かもめ号」である▼「一般の人と身障者の垣根をとり除くこと、それがわれわれの福祉活動の目的なんです。だから身障者には町へ出なさい。町の人たちにあなた方の身体を見せなさいと言っているんです。一般人と身障者との同化はまず、そこから始まるのですから。ハンディキャブの運行は、この活動のスタートです」と話す吉田さん。吉田さんの運動に共感した市民が「福祉事業協会愛の手」を組織して各地に募金箱を設置、ハンディキャブを支援している▼福祉バスやハンディキャブの分野は、民間で運用してもなかなか採算ベースには乗らない。行政の取り組みなしには、こうしたサービスは行き届かないのである。厚木市社会福祉協議会でも、昨年12月に、日本テレビの「愛は地球を救う24時間チャリティー」で寄付を受けたハンディキャブを、この4月からスタートさせるという。行政や社会福祉法人のもっと前向きな取り組みを期待したい。

  選挙の思惑(1979・2・1)

 保革退潮傾向を背景にして、キャスチングボードを握った中道四党(民社、公明、新自由クラブ、社会民主連合)の足立原氏すいせんは、厚木市にも昨今の首長選に見られる政党連合の図式が、やはり、持ち込まれたというべきで、同市長選にからむ各政党の思惑も複雑なようだ▼自民党は保守派の石井離れから支持層が2分された格好で、中道四党の動きによって同市長選に関しては完全に態度を封じこめられた。しかし、後に控える県議選にマイナス影響が出るため、下手に動くより静観していた方が得策というのが本音だろう▼社会党、共産党に関しては、保守王国といわれている土地柄、勢力そのものが弱い存在ではあるが、前回の共闘の例がある以上、市長選に何のクサビも打ち込めなかったという批判はまぬがれそうにない。特に社会党は野党第一党の面目丸つぶれであろう▼中道四党の中で、新自由クラブと社会民主連合は厚木での党勢拡大をねらう思惑がある。特に新自由クラブは県議選や市議選を十分に意識した結束劇でもあった▼市長選後の市議選で新しい政治地図が描かれかどうかを論ずるのは早計だが、少なくとも各党が市議選とのかねあいをどう目論んでいるか。保守派の市議に対する反動はどうか。厚木市長選はさまざまな問題を想起させる。政党や市議諸公の思惑はいったいどうであろうか。

  間謝状(1979・2・15)

 厚木市は今年も市政功労者に対して表彰状を贈った。どこの自治体でも表彰制度を設けており、そのこと自体に異論をはさむつもりはない。石井市長が3日、県央労働福祉会館で手渡したものはいくつ目になるだろうか、などと暇なことを考えてみた。ある者にいわせると、「その数は厚木市の所帯数に匹敵する」そうだ。これはいささかオーバーとしても、20年の在任期間に、かなりの数の表彰状や感謝状が贈られたことは疑いない。あまり多く乱発すると「表彰状の安売り」という感じさえしてくる▼中にはどう考えても納得いかない表彰もある。被表彰者を選ぶ際、やたらと各団体に割り振りして数を出すという方法や、何らかの名目で増設したり、また、およそ表彰には縁遠いと思われる人に贈るなど、市民感情を悪くする原因にもなっている▼表彰状、感謝状の類は昔からお上(かみ)が、下々に贈るのが常であった。しかも官に厚く民に薄いというのがお定まりだ。昨年秋、相模原市相武台団地の自治会が、行政関係者に贈った感謝状はなかなか面白い。それは裏を返せば行政の怠慢への「告発状」であったという。多分にブラックユーモアを感じさせる感謝状だが、贈られたお役人の心境はいかがであったろう▼表彰状や感謝状は、「長期間その役職を努めた人」に対して贈られるケースが多い。相武台団地の自治会とは主旨が違うが、われわれもまた、長年公務に尽力されている「石井市長」に対して「間謝状」を贈りたいと思うが、どうだろう。しかも心を込めて。

  6選阻止(1979・3・1)

 注目の厚木市長選挙は、新人の前助役足立原茂徳氏が、現職の石井忠重氏に9,368票という大差をつけて圧勝した。当初から、激戦といわれていただけに、この大差は厚木市8万有権者の誰もが予想だにしえなかったことだろう。この大差は予想外というよりは、市政の流れを変えようとする市民意識の現れと受け止めるべきである。77.97%という高い投票率を見てもそれを如実に物語っている▼足立原氏の勝因は、何といっても“6選阻止”のスローガンに多くの市民が共鳴したことにある。長期保守市政の弊害に対する批判は、保守系市議を2分して「石井離れ」を起こさせ、中道4党・社会をも加えた市民運動として盛り上がった。その頂点が「サンシャイン厚木市民連合」にあったことはいうまでもない。さらに、足立原氏が公約として掲げた「サンシャイン市政10の約束と100の政策」も見逃せない。その骨子ともなる「教育文化都市厚木」の建設は、教育問題で遅れている市民意識をとらえ、婦人票をさらったといえる▼これに対して石井氏は、「地方政治にイデオロギーはいらない」として、“市民党”を名乗ったが、これは政党の支持取りつけに失敗した隠れみのとしての効果しか果たさず、逆に勢いのなさを見せつけてしまった。また、石井陣営は「現職強し」との立場から、終始楽観論が漂い、政策面においても足立原氏に対抗するものがなかった▼両陣営がばらまいたビラやリーフレットは膨大な量だが、それに要した費用もまた膨大なものだろう。告示前から文書による激しい中傷合戦が繰り広げられ、選挙戦後半に至っては個人を中傷する怪文書が大量にばらまかれるなど、同市長選は厚木市始まって以来の汚い選挙になったことは恥ずべきことである▼「6選阻止」は、逆にいえば5期までを容認しているということではない。足立原氏を支持した人たちは当然、この意味を十分に理解している人たちであろう。そうでなければ、足立原氏もまた同じ論法で引きずり下ろされるわけだから。

  地方の時代(1979・3・15)

 3全総から田園都市構想へと「地方の時代」志向が活発になってきた。しかし、東京を中心とする大都市に集中した命令指揮機能、情報機能を分散することは容易ではない。地方産業の振興、地方財源の確保、地方文化の創造など、地方の時代に対応する難問も山積している▼そもそも地方の時代の発想は、大都市に集中した過密のデメリットを、地方に分散して過疎対策を考えるという発想から来ている。つまり、中央がいっぱいになってどうしようもないから、地方に出す。そして地域間の経済のアンバランスを解消するとい考えだ。しかし、これでは中央のコントロールを受けた、中央の発想による地方の時代である▼地方の時代は、産業や生活圏をただ地方に分散化すればよいという発想ではない。地方の自主性や独自性を活かしたものでなければならない。それには中央サイドの「地方の時代思考」を変える必要があるだろう。中央からいちいち口が出るようでは地方の主張は生かせないし、財源がヒモつきで補助金をもらうのにお百度参りをしたり、税源の配分がいつまでたっても「3割自治」では、地方の権限は強まらない▼地方の時代は地方が自らの発想とその責任において物事を処理するというのがその姿であり、地方自治が根幹になることはいうまでもない。その意味では地方政治の役割は国政よりも大きいといわねばならない。言い換えるなら、自治体の職員や長、議員諸公の能力が間違いなく問われる時代でもあるのだ。

  機構改革(1979・4・1)

 現在、厚木市の行政機構は市長部局、行政委員会を含めると、全部で18部、51課、123係。職員数は1,050人である。足立原市長が「機構改革」をどのように考えるか興味深いが、石井体制のもとで20年間築き上げられてきた機構にメスを入れることは並大抵のことではない▼肥大化し細分化された組織をどう再編成するのか、硬直化し動脈硬化を起こしている組織に活力を与え、職員にも仕事の生きがい与えるためには、単なる部課長の異動という方策だけでは市民のニーズに対応できない。これまでの機構改革が高齢職員の処遇とポストの増設、そして何よりも市長お気に入りの人事に堕していた感があり、ここで相当思い切った大手術を施さないことには、機能性はますます失われてくる▼機構改革に当たってはまず効率化と適正化が重視されなければならないだろうし、これまでのタテ割り組織をコミュニティー、市民の立場から見直し、これに対応できる流動的なものに改める必要もある。無用な部署をどうスクラップアンドビルドするか、中間管理層をどうするか、またよこの調整をはかるために行政全般、各部及び内部をどうコーディネートするか色々な問題が生じてこよう▼単なる年功序列や能力のない人間を、同期生とのバランス上恰好をつけるためにポストに当てるという方法は最低限改めなければならない。民間企業でもこのような誤った運用は、中間管理層への批判をより強くしているのである。

  大矢太吉さん(1979・4・15)

 この2月26日、大矢太吉さんが97歳という高齢で他界された。第2次大戦前後、愛甲郡玉川村(現在厚木市七沢)の村長としてよく村を治めた人である。訃報に接して、氏の功績を偲び思いを新たにした人も多かろう▼愛川町に住む中村妙心さんは、当時、東京から玉川村に疎開し、村役場に勤めていた。大矢さんとは馴染みの間がらだが、その人柄、偉業を次のように手紙に寄せてきた▼村人に長患いの人がいれば、どうしているかといつも人に尋ねていた。お酒が何よりも大好きで戦勝祝いや仲人役を引き受けた時の帰りは決まって野宿。畑の中で愛用の自転車を抱いて一夜を明かした人だった▼戦時中、玉川村では横浜在住の外人で、明治以来から住みついた4人の商館の主を政府の依頼で預かっていたが病死した。その死体の始末を嫌がる村人に手を合わせて頼み、ていちょうに葬った。村民の中には外人にゴボウを食べさせたというだけで戦犯にされた人もいる。木の根としか外人には思えなかったのであろう。「村長が外人を虐待していたら―、いま私が、こうしていられるのは村長さんのお陰です」と▼日本の勝利を信じて疑わず、敵国人と見れば、石持て追い払い、殺戮さえしかねなかった時代にたとえ日本に功績のあった人とはいえ、その処遇に当たってはさぞつらい立場にあったろう。大好きな酒もさぞ苦かったのではあるまいか。七沢の「風見鶏」堕つ。冥福を祈ろう。

  ヘボン博士(1979・5・1)

 中津渓谷には本厚木駅から宮ケ瀬行のバスで約1時間10分。渓谷入口で降りる。家族連れの水遊びにはバス道をしばらく行って記念橋のあたりがいい▼中津渓谷林道を40分ほど歩くと、梅の木平に出る。ここは絶好の釣り場である。河原で弁当を広げる風景も見られる。キャンプ場のある石小屋橋へここから20分。対岸の大沢の滝が見ものだ▼「関東の耶麻渓」といわれる中津渓谷に、その昔外人が遊んだことを知る人は少ない。江戸時代の末期、横浜が開港され、居留地に外人が住み着いた。厚木宿の記録を見ると、暇を見ては厚木付近や中津の上流、宮ケ瀬の奥に遊びに出かけていたことが分かる。「外人たちは丹沢渓谷美に囲まれた雄大な自然を愛し、釣りや狩猟を楽しんだ」(鈴村茂著『厚木交通物語』)という▼日本医学界の恩人ヘボン博士が中津渓谷の石小屋を訪れたのは慶応3年。当時半原の井上弥吉はヘボン博士に接して何くれとなく世話をした。博士が宮ケ瀬に入ったのも、この弥吉の道案内によるもので、石小屋から梅の木平に通ずる道である。今のハイキングコースである▼明治に入ってからは宮ケ瀬の長福寺に外人が次々と訪れている。寺の記念サイン帳にはヘボン博士の名も見えたというが、明治9年この寺は廃寺となった。以後、付近の民家を借りて「異人館」と名づけて宿泊したそうだ。外人が愛した中津渓谷も数年後にはダムで水没する。ヘボン博士が弥吉といっしょに歩いた道も消える。博士が生きていたら、さぞガッカリすることだろう。

  助役人事(1979・5・15)

 足立原市長が助役人事で悩んでいるという。通常なら6月議会に提案して、議会の同意を売る段取りだが、今回はどうもスムースにコトが運びそうにない▼助役の任免は市長で、選任に当たっては議会の同意が必要だ。有体にいえば、自分の女房を市長が探してきて議会のみなさんに「どうかよろしく」と同意を求めるわけで、通常は「よろしゅうございます」となるわけだが、人選によっては議会が同意しない場合もあり、混乱を招いたり、空席になってしまう場合もある▼助役の選任に議会が同意しない場合の多くは、@市長と与党議員たちを中心にした派閥争いA反動的または不適切な選任に対する議会の抵抗 B市長の活動、政策実行を妨害する目的の政党やそれに同調する議員たちの党利党略がある▼足立原市長が悩んでいるというのは、女房役にしたいと思っている人が、政治の裏街道を歩いてきた人で、ダーティなイメージがあるというレッテルが貼られているからである。つまり助役としてふさわしくないので、議会の同意を得られないかも知れないという危惧感である。スンナリと決まるのがいいのか、難産の結果決まるのがいいのか。「初めよければ終わりよし」「難産の挙句に生まれる子はよく育つ」という譬えもある。「心配だから任せられない」「いややらしてみようじゃないか」どちらも親心に違いない▼しかし、助役はあくまでも助役である。助役たる任務は長を補佐し、その補助機関たる職員の担任する事務を監督し、長の職務を代理するのがその努めである。従って、助役としてふさわしくなければ市長はその任期中でも一方的に解職できるし、住民によるリコールも出きる。もちろん、だからといって誰でもよいというわけではない▼それにしても、助役人事を提案する前から、議論百出、賛否両論激しいのは極めて異例である。渦中の人にそれだけ問題があるのだろう。

  幼児教育への補助金(1979・6・1)

 厚木市の昭和54年度予算案が発表された。全体として教育行政重点の骨格予算である。足立原市長は教育費の中で、私立幼稚園就園費奨励補助金を引き上げることに決め、現行の4歳児年額7,000円を12,000円に、5歳児12,000円を24,000円にする予算を組んだ。過去の伸び率が2割弱でであったのに比べ、大幅な引き上げ額である▼「私立に100%依存、公立幼稚園のない厚木市にとって、父母負担の軽減を図ることは当然である」就任当初語っていた同市長の方針からすれば、公約通りということになるだろう。保護者にとっては誠にうれしい話である▼しかし、これで幼児教育は万全ということにはならない。たとえば幼稚園に入園していない子どもの場合はどうなるのであろうか。幼児教育の場は何も幼稚園ばかりではない。幼稚園に行かずに音楽学校に通ったり、その他の専門教育を受けている子どもたちもいる。それに1年保育だけで済ます子どももおり、その数は微々たるものでは片づけられない▼相模原市の場合は就園補助金を出してはいない。代わりに5歳児のみ全員「幼児教育費」として一律6,000円の支給を行なっている。この額では十分とはいえないが、あらゆる児童に公平で平等な幼児教育費をという考えは見習うところがある。同市長は選挙で陽の当たらないところにも陽の光を当てる「サンシャイン市政」を掲げた。あらゆる児童へ…というのがサンシャイン市政の精神だろう▼今後、社会構造が変化するにともなって、幼児教育のあり方も見直されてくるだろう。どこに幼児教育費を位置づけるのか。理事者は予算編成に当たって、その適用を多面的な角度から考えてもらいたい。

  鮎解禁(1979・6・15)

 釣りファン待望の鮎解禁が1日、県下の各河川でいっせいに始まった。相模川の「鮎漁」が有名になったのは徳川時代からで、幕末の志士渡辺崋山が39歳の時、厚木に来遊し、鮎料理に舌鼓を打ったことは今でも語り草になっている。「鎌倉見たか江戸見たか、厚木のまちを見て来たか」と唄われた厚木は、船運の宿場と鮎漁で賑わいを見せ、「相模の小江戸」とよばれ繁栄した▼白い帆に風をはらみながら相模川を渡る高瀬舟、そのかたわらに威勢のいいイカダ師にあやつられて下る多くのイカダ。陸路の交通機関がまだ十分に発達していなかった明治や大正のころまでいつでも見られた光景だ▼大正時代になると、厚木を中心に相模川の京浜地方の人々にとって遊覧に欠くことの出来ない存在となった。厚木の旅館や料亭は相模川に屋形船を浮かべ、腕によりをかけて顧客誘致にやっきとなった。ピーク時には先客万来の繁昌を見せ、川面を伝って三味線や太鼓の音が夜遅くまで響き渡った▼今も昔を偲ぶ屋形船があって、都会人が鮎漁で楽しんでいるが昔の面影はない。現在は鮎漁よりも「鮎まつり花火大会」が、これに代わって華やかな賑わいを見せている。戦後は「ミス若鮎コンテスト」なども行なわれ、祭りに花を添えたが、これも2度ばかり続いて中止になった。近ごろの鮎まつりは面白くないという声も出ている。銀の鱗(うろこ)の鮎おどるピチピチした若鮎娘の肢体を眺めたいのは拙者ばかりではあるまい。

  取り下げ(1979・7・1)

 厚木市の6月定例会が6月25日閉会した。足立原市長にとって、54年度の骨格予算を審議する初めての議会とあって市民の関心を集めたが、助役人事や市特別職の退職金を引き上げる条例改正案など軒並み取り下げというハプニングが続いた。この2つの「取り下げ事件」を、市民はどのように受け止めたであろうか▼少なくとも「自分に都合のよい人事」「自分のお手盛りを考えた条例改正案」を出そうとしたというイメージはぬぐいきれそうにない。同市長は「政策面で否定されたのではないし、深刻なショックはない」と語っていたそうだが、つまずきはつまずきである▼「就任してまだ4カ月足らずだ、政治手腕のなさを指摘するのは酷である」と同市長を弁護する意見もある。議員の間には7月に行なわれる「選挙に不利になることはしたくない」という心理が働いていたことも確かだろう。しかし、「筋の通らない、納得できない案件には賛成できない」とする是々非々の態度はおおいに理解できる▼この一連の“取り下げ事件”を称して、「厚木は議員主導型の市政」と指摘する者もいる。「連合化の悲しさ」と言ってしまえばそれまでだが、足立原市長に理解と合意を求める姿勢が欠けていたことも否めない▼今、同市長にとって大切なことは、就任当初明らかにした“初心”の気持ちと、市政に対する“慎重”な対応である。張り切るのは良いが、気負いすぎは勇み足につながる。市民の期待が大きければ大きいほど、それだけ失敗した時の落胆の気持ちもまた大きいのである。

  農村型から都市型へ(1979・7・15)

 厚木市議選たけなわである。今回は新人15、現職22の計37人が立候補した。文字通りの少数激戦である。新人には未知数に期待が寄せられるが不安も多い。一方、現職はこれまでの議会活動の是非が問われそうだ▼どちらもプラス、マイナスの要素がある。さらには候補者の人格、識見、人間性までも評価の対象になってくる。日頃の行ないが悪い人は目も当てられない。この戦渦をかいくぐってくるのは果たして誰であろうか▼昔は地縁、血縁がものをいう選挙。名望家、地域ボスの支配、胸に輝く議員バッジは権力の象徴だった。そして住民にとって議会とは閉鎖社会でもあったのだ。いま、こうした形が音をたてて崩れつつある。都市化によって生活環境は激変し、そこに発生したさまざまなヒズミは住民の政治意識を変えてくるのは当然だろう。人口13万人の中型都市に成長した厚木は、いまこのまっただ中にあるといっても過言ではない▼農村型選挙から都市型選挙へ、時代のタイムラグを見せながらも、それは確実に進行している。今後、厚木の議会は名望家議員から政党家議員、そしてさらに住民党議員へ道を歩むだろう。いずれにしても市長選後「市政を住民の手に取り戻そう」という意識は、さらに深まりつつある▼よき議員、悪しき議員を選ぶのもわれわれ自身だ。その結果は住民に直接ハネ返ってくる。だとすれば選挙の1票は責任ある1票だ。このことは強調しすぎても強調しすぎることはない。

  野合(1979・8・1)

 改選後の厚木市議会の勢力分野が決まった。保守再編成で新会派が結成された研政会が20、公明党3、民社クラブ3、共産党3、社会党1の勢力分布図である。注目すべき点は保守合同による研政会の会派結成と今後の動向だ▼これまで対立関係にあった与党の新政同志会と野党の政和会が手を握り、保守の新人議員も加えて「仲良くやろう、新自由クラブさんもどうぞ」というのだから、一体、何が何だか分からなくなる。表向きは保守合同による安定政権の確立と受け止めることが出きる。当然、野党対策もあるだろう。保守が分裂していては中道にリーダーシップを奪われ、革新につけこまれるスキを与えるという危惧感があるのかも知れない▼確かに議会が多党(会)化し、党利党略や限られた保守の思惑によって、いたずらに混乱が続いては正常な議会運営は出来ない。しかし、数による政治力学は政策論議を不毛なものにさせ、単なる人事や自分たちに都合の良い議案を通すだけという力の均衡による政治を生み出す危険性もある▼いや、これにはそれ以上に保守の思惑が交錯した「ウラ」があるように思えてならない▼そもそも、市長選で足立原派と石井派に分かれて激しく対立した保守勢力が、いとも簡単に融和を図れるものだろうか。「昨日の敵は今日の友」という発想は、政策や信念のない保守だからこそなせる技に違いない。そこにはポストの配分をうまくやろうじゃないかという魂胆しか見えてこない。それにしてもあまりにも無節操である。これは単なる「野合」でしかない。

  鮎まつり(1979・8・15)

 鮎まつりを拝見した。昨年とさして変わり映えがしなかった。変わったことといえば、相模川でコレラ菌が見つかったため、鮎釣り大会が中止になったことぐらいだ。相も変わらずいつものワンパターンである▼花火大会は別にしても、歩行者天国などはまるで魅力がない。主催者側にしてみればそれなりに大変だろうが、もう少し面白く出来ないものかと思う。魅力がない理由は芸がない、個性がない、アイディアに乏しいからで、だから市民の参加も少なくなる▼別に主催者側の企画力のなさをけなしているわけではない。お祭りというものが、昔から庶民のものとして行なわれてきたにもかかわらず、厚木の「鮎まつり」は、行政主導で行なわれているため、いつまでたっても市民祭として盛り上がらないのである▼逆に言えば、市民の自発性が足りないわけで、何でも行政にお任せでは、個性が乱舞した楽しいお祭りなど出来ようはずがない。お祭りが住民によるまちづくり運動の一環であり、市民文化の創造の場であるとしたなら、そこには必ず市民主体の市民によるお祭りの姿が見られる。そこでは行政は単なる客人にすぎない。つまり「住民が主催する市役所参加のお祭り」である。簡単にいうと行政は協力者であり、お金だけ出せばいいのである▼ところが、行政は市民のおまつりを役所の仕事だとして予算化し、本来やらなくてもいいことをやっているような気がする。いまや住民によるまちづくりに、行政がいかに参加していくかが追求される時代なのである。住民はもっと奮起すべきである。そうでなければ鮎まりはいつまでたっても「市民祭」としては盛り上がらない。

  地震予知(1979・9・1)

 地震予知がどの程度出きるのか、またその確率は何%であるのか、われわれ素人にはよくわからないあ、東京大学の竹内均教授によると、「何らかの形で前震をともなう地震は全体の5%しかない」という。残りの95%の地震は何の前ぶれもなしに、いきなりドーンとやってくるわけで、予知情報にもとづく警戒宣言は、この5%の範囲で行なわれることになる▼極めて低い数字だが、的中率が高ければ事前に対応策を考えて被害を最少限に食い止めることができる。それだけ予知への期待は大きくなるわけだが、先の数字から見て「大地震は突然やってくる」と考えていた方がまず間違いない▼1975年に中国海城で起きた地震は直前に予知できた。これは極めて稀なケースといえよう。当然、予知の空振りはある。よく考えるてみると空振りにこしたことはないのだが、問題は何回までの空振りにわれわれ市民が耐えられるかといういうことだろう。天気予報ならば、当たらなくても笑って済ませられるが、地震となるとそうはいかない▼ここには、「地震の予知はありがたい、でも空振りに越したことはない、だが、いつも狼少年ではこれまたたまらない」という矛盾した論理が生まれてくる。対策に生かしきれない予知は自ずから評価が下がってくるだろう。当然、専門家の権威も失墜してくる。けれども、地震予知の情報はやっぱり欲しい。一番恐ろしいのは予知を信じなくなった時の社会的影響だ▼予知が当たるにせよ、外れるにせよ社会的影響が大きいことは確かだ。しかし、これだけはいえるだろう。われわれは予知が外れた時の代価より、当たった時の代価の方がはるかに大きいことを考えると、予知情報はいつでも「狼少年」であることを期待しながら、真剣に対応するほかはないのではなかろうか。予知とはそういうものである。

  選挙の執行費用(1989・9・15)

 選挙の運動費用に金がかかることは誰でも知っているが、選挙を執行する側にも莫大な金がかかることは意外に知られていない。神奈川県選挙管理委員会は10月7日、投票で行なわれる総選挙の費用として8億円(前回6億2,200万円)を計上したという▼何に使うかというと、選挙の執行費用が7億7,700万円。これにが立会人や管理者の報酬、一般職員手当、選挙広報、ポスター掲示板の費用、立会演説費、投票箱、その他の一般事務費が含まれている。次に啓発費が1,300万円。これは選挙民へのPR活動費だ。そして、最高裁判官の国民審査費用が1,000万円である▼このうち約2億2,000万円を県選管、5億8,000万円を市町村選管が使うことになっているが、費用は国からの交付金として支給されるため、「超過負担」はないという。ちなみに厚木市の場合は約1,200万円かかる。それにしてもかなりの金額だ。全国の数字を累計すると一体いくらになるのだろうか。総理大臣の「伝家の宝刀」が、1度に何100億という金を使わせることになるのだから、まったく驚きである。しかし、この金も候補者の運動資金に比べると微々たるものかも知れない▼県選管で発表した1人当たりの候補者の法定選挙費用は、神奈川5区で1,544万3,600円だ。しかし、実際には候補者はこれの何十倍かの金を使う。その金はどこから出るのか知らないが、党費、後援会費、自前だけではとても足りない。いわばこちらは「超過負担」だ。日本はこんな選挙を何十年もやっている。

  インベーダーゲーム(1979・10・1)

 ピコピコ、キューン。奇妙な電子音を発して全国津々浦々を侵略していった、あのスペース・インベーダーが次第に撤退しつつある。日本を狂乱の渦に巻き込んだインベーダー。彼らが侵略したものは一体何であったのだろうか▼ギャラントメント誌によると、侵略された人間はピーク時の54年4月で、1日約1,000万人。1人平均300円で撃退するとして、侵略された金は1日30億円。何と月に900億円もの現金を略奪していたことになる。従って略奪された100円硬貨は1日3,000万枚にもおよぶ。ちなみに日銀が発行する100円硬貨の枚数は、平常月で約2,500万枚。この6月には6,600万枚を発行しているから、さしもの日銀もインベーダーに脅かされたことになる▼そればかりではない。インベーダーは人間の心まで侵略し始めたのである。「ゲーム代欲しさに万引き」の記事は、つい先頃まで新聞紙上を大きく賑わしていた。まさに驚くべき侵略者である。われわれの撃退作戦も打つ手なしと思われたが、これはさほど心配するほどのことではなかった。なぜなら侵略者は一過性のもので、ブームに過ぎなかったからである▼要するに飽きられたのである。侵略者はその時点から敗北者になった。それもそのはずである。永遠に勝利のないゲームに、われわれはいつまでもうつつを抜かすはずがない▼ヒコヒコ、ヒューン。あの電子音もひところのような冴えがなくなった。インベーダーは確実に日本全国から撤退しつつある。しかし、油断は禁物だ。敵は手を変え品を変えてまたやってくる。いまや「増税」というインベーダーが、絶好の侵略の機会をねらっているのだから。

  マイナス投票(1979・10・15)

 総選挙が終わって、新しい国政の勢力分野が決まった。まず思うことは、投票率が低かったことと相変わらず国民の政治不信が強いということだ。台風の影響もあったが、もともと争点のない選挙、意味のない解散選挙ということもあって、選挙民の足をにぶらせたことはまちがいない▼1つ目は相変わらず前・元の汚職議員が当選を果していることだ。これは日本的な義理にんじょ人情、金権選挙意識、そして何よりも不正な候補者を許すという政治意識が一向に改まっていないことを示している▼「マイナス投票」という言葉がある。正式な選挙用語としてあるわけではない。作家の小田実氏の発言である。小田氏は誰を当選させるかという権利と同じく、誰を落選させるかという権利があってもいいだろうというのである▼たとえば色分けした2枚の投票用紙があって、これに信任と不信任を書き込む。かりに候補者が信任投票で当選圏内に入っていても、不信任の数が多ければ落選になるといった具合である。その分だけ信任投票の多い分だけ繰り上がるというわけだ。極端に言えば、最高点で信任されても落選することがありうる▼もちろん、これを選挙制度として活用するには不備な点もある。手続きや開票にも時間がかかるだろう。しかし、有権者によってははなはだ興味のある問題だ。政治不信解消にもつながるし、投票率も上がる。金権、汚職議員を糾弾するにはもっともふさわしい方法だと思うのだが。

  決算議会(1979・12・1)

11月21日から厚木市の決算議会が始まった。自治体の決算議会でいつも思うことは、「あれほどの金を使って、何1つ問題が出て来ないのはどういうことなのだろうか」という行政に対する不思議さである▼それは議会の決算審議が形式的に行なわれるからである。事業が済んでしまったことだからというので、軽視される傾向にあるのである。これは予算主義の弊害だ。決算審議は単に技術的なミスがなければそれでよいというものではない。市民の税金が財政支出を通してどのように使われたか、その政策を点検する場所でもあるはずだ▼例えば「新厚木音頭」の問題がある。これは52、53年度の継続事業で、市では550万円を計上して作成委員会に音頭の制作を委託した。53年度の予算は450万円。このうち417万9,348円を使って事業は3月に終了した。しかし、審査員の入選騒ぎや盗作などの問題が生じたため発表会は中止、制作したレコードも陽の目を見なかった▼決算議会では「効果のなかった委託事業」として認定されそうだが、ここのところがどうも納得できない。極端にいうと「市民の税金を無駄に使ったのに、議会はそれを認めるのか」ということになる。民間ではとても考えられないことだ▼役所は市民の福祉サービスにどれだけの効果が上がったかということになると、まったくもって関心がない。それよりも予算を使いこなすことが仕事としての実績になる。中身よりも形が整えば良いのである。だから、政策の失敗はほとんど問われない▼予算主義は歳出が増えれば歳入を増やせという短絡的な発想に結びつきやすい。アメリカでは地方自治体の歳出は増えれば、固定資産税の税率も自動的に上がる仕組みになっている。つまり、アメリカでは歳出をいかに削るかが予算審議お重要な、ポイントになるのである。したがって決算審議には相当の時間をかける。日本の自治体も少しは見習って欲しい。


(※「大矢太吉さん」は矢吹富貴子の執筆です)                                           

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