★★★★風見鶏

2010年1月1日〜12月15日

 セーフコミュニティの実践(2010.12.15)

 安心安全なまちづくりに取り組んできた厚木市が11月19日、WHO(世界保健機関)セーフコミュニティ(SC)推進協働センターのSC認証を取得した。国内では京都府亀岡市、青森県十和田市に次ぐ3番目▼SCは「事故やけがは偶然に起こるものではなく、必ず予防できる」という理念の下、地域住民と行政などが協働して「地域の誰もがいつまでも安心・安全で健康に暮らせるまち」をつくろうという取り組み。認証取得には1分野や領域の垣根を越えて協働で取り組む組織がある2傷害の頻度と原因を記録するプログラムがあるなど6つの指標を達成することが条件▼同市では2008年から活動を開始、認証6指標に基づく体制づくりや課題の抽出、交通安全や自殺防止といった8つの対策委員会の設置などを市民協働で取り組んできた。小林市長は「さまざまな人の協力があって今日を迎えられ感激の極み。今日を新たなスタートとして更なる安心安全に取り組んでいきたい」と述べた▼これにより同市はSCの実務実践の時代に向けて離陸した。今後、データによる科学的名アプローチ、根拠にもとづいた対策、効果、評価、持続的な対策などが課題となろうが、大きなベースとなるのは何といっても「コミュニティの絆の再生」にある▼「気付いた人から気付いたところから始めよう」がSCの精神でもある。この言葉を合言葉に市民1人ひとりが実践していくことが大事だ。

 まちづくりのビジョン(2010.11.15)

 市長選への出馬を表明した石射市議は小林市長に対して「ビジョンがない」と批判した。ビジョンとは何であろうか。ビジョンとは心に描く像、未来像、展望、見通しなどである。従ってハートや輝きとか元気などという抽象的な言葉や形容詞を羅列することではないし、参加とか主役というまちづくりの手法を重ね合わせることでもない▼ビジョンとは将来厚木市はこうなるという具体的なイメージなのである。そこには期待感やアクセス感、物心両面の成長感がなければならないだろう▼まちづくりは地域計画である。市長は地域のあるべき姿を描き、あるべき姿を実現するための道筋を明らかにし、その実現に向けて具体的な取り組みを始めなければならない。これをビジョン、選択、実行の三位一体という。これが揃わないと変化も成長もない▼かつて石井市長は「農業都市から産業都市」、足立原市長は「教育文化都市」をまちづくりのビジョンに掲げた。以後、市の総合計画を見ても抽象的な言葉や形容詞の羅列に終始して、具体的な将来像が見えてこない。「住んでよかったまちづくり」などという言葉はその最たるものであろう▼市長の仕事は「持続可能な地域」を実現することである。小林市長は2期目の出馬にあたって、「元気」などという言葉ではなく、改めて具体的ビジョンを打ち出してはどうか。批判した石射氏にしても自らのビジョンを、早急に示す必要があろう。

 食によるまち起こし(2010・10・15)

 「食」によるまち起こしが全国で注目されている。その地方や地域で昔から愛され親しまれてきた食でまちを元気にしようという試みである。その主役がB級グルメだ。9月に開かれたB-1グランプリin厚木大会は、2日間で過去最多の43万5千人が来場した▼厚木市はその経済波及効果を2日間で計36億円と発表した。当初、実行委はテレビや新聞などのマスコミ、食事チケット代金、飲食費、交通費などを含めた経済効果を7億円と試算していたが、メディアの広告効果などを含めて上方修正したという▼グランプリで上位入賞すると、一気に全国区のご当地グルメに成長する。今回、ゴールドグランプリを受賞した「甲府鳥もつ煮」は、受賞の翌日から甲府の町が観光客であふれ、売り上げが10倍にもなった店がある。5位に入賞した「三崎まぐろラーメン」も、大会直後の週末、来客数が3割も増えた▼B級グルメはその地方独自の味、庶民的な価格、かたひじ張らずに食べられるなどが魅力だ。餃子や焼きそばなどのように日常的、継続的に子どもからお年寄りまで幅広い層に食されるグルメには安定した力がある▼厚木市では今年、あつぎの食ブランドとして28品目を「あつぎOECフード」として認定した。お馴染みの鮎料理、とん漬け、シロコロホルモン、ウィンナー、地ビールなどが並んでいるが、厚木には古くから伝わる酒まんじゅうがあり、かつてはお祭りといえば主婦の腕のふるいどころでもあった。話題性や開発型商品もいいが、こうした古い食文化にいま一度光を当て、まちおこしにつなげることも必要だ。

 リーダーのレベル(2010・9・15)

 地域のリーダーというのは、誰もが私たちのお手本になってくれるような「進歩度の高い人」が理想だと思っている。だが、民主主義というのは面白いもので、進歩度の高い人が現実的にリーダーに選ばれるということはまずありえない▼その理由は、そのような人は選挙には立候補しないし、たとえ立候補したとしても、有権者はその人を当選させることができないからである。つまりレベルが違うのである。「この市民にしてこの政治」の諺通り、市民は自らのレベルと共鳴できる人にしか投票できない ▼ リーダーに求められるスキルは何であろうか。それは「地域のビジョンを描き」「ビジョンの達成に向けて正しい選択をし」「実行する」ことである。ビジョンを描く事はリーダーでなくても出来る。実行することも誰かに指示をすれば可能だ。そうすると「ビジョンの達成に向けて正しい判断」をすることだけがリーダーにしか出来ない仕事になる▼今日のリーダーにはそうした能力が備わっているだろうか。正しい判断の手法は言わずと知れた民主主義である。周知のように民主主義は多数決によって意思決定を行うのがルールだ。だが、多様な意見が多く個人のレベルが異なる中で、多数決で決めた結論が必ずしも「正しい選択」にならないのが世の中である。失敗した公共事業やイベントを指摘するまでもなく「多数決で決めたことは誰も責任を取らない」というのも事実である▼今日問われているのは「地域において責任がともなう正しい選択が行われているか」ということであろう。それは地域内分権がどの程度にまで達成されているかを問うことでもある▼来年2月に厚木市長選が行われる。現職が再選を目指して立候補を表明した以外は、新人の出馬表明はない。有権者のレベルに合った人しか当選しないというのは正しい論理だが、最近はそのレベルが昔に比べてかなり低くなってきている。名古屋市長や阿久根市長を見るまでもなく、市民は本当のところ「進歩度の高いリーダー」「自らの意思で正しい判断ができるリーダー」「多数決で決めても自分で責任を負えるリーダー」の出現を待っているのではなかろうか。

 県央相模川サミット(2010・8・1)

 相模川でつながる県央6市町村(相模原・厚木・海老名・座間・愛川・清川)の首長が参加する「県央相模川サミット」が、今年の2月から始まった▼「川でつながるわたしたちのまち」をキャッチフレーズに、それぞれの自治体が抱える共通課題の解決策を探っていこうというもので、7月8日にも第2回の会議が相模原市で行われ、8月8日に6市町村合同クリーンキャンペーンを実施することが合意された▼共通課題は河川利用と広域交通である。平成9年に河川法が改正され、河川利用はこれまでの治水、利水から、新たに河川環境の保全と整備が加わった。河川が本来持つ生物の生育環境を生かし、美しい自然景観をつくり出す「多自然型川づくり」に方向が転換されたのである。サミットでは議題に上らなかったが、海老名市側の相模三川公園は完成しているのに厚木市側はいまだに都市計画決定すら出来ていないし、厚木市は相模大堰に県道を通すという相模新橋計画が、15年以上もストップしたままという問題を抱えている▼脱スポーツ施設、多自然型川づくり、コンクリート製護岸の廃止という共通認識のもとに、既存の施設利用と整備のあり方も検討する必要があろう。各自治体が連携して特徴あるビオトーププランを打ち出してもいいし、環境保護の一体的取り組みや、上流から下流までの遊歩道を参加自治体の協力で整備するなどのやり方も考えられよう▼沿川市町村のトップが集まる相模川サミットだ。河川管理者である県もオブザーバーとして参加している。サミットならではというテーマの進化と議論の深化をのぞみたい。

 情報リテラシーを鍛える(2010・7・1)

 参議院選挙が始まったのに関心が今イチである。何かすっきりしないのである。それは政権交代が実現した2009年の衆院選で、国民1人ひとりが変わることが、国を変えていく第一歩になるということが分かったはずなのに、どうもそうにはなっていないという苛立ちである▼その原因はわれわれ自身にある。日本人はむかしから時代の空気や流行によって、また慣習や世間というものによって流されやすい民族だ。100年に一度の経済危機の中、長期的ビジョンを描くことが苦手な日本人は、ますます目先の損得しか見ようとしなくなってきている▼目先のことや現象面だけにとらわれていると、物事の本質を見誤ってしまう。われわれは政党や政治家が選挙の票集めを狙って繰り出す一過性のばらまきやマニフェストに書かれた耳障りのいい言葉に流されていないだろうか。小泉元首相のエモーショナルな言葉や鳩山前首相の甘言に感動し、一喜一憂した国民は、流されていなかったといえるであろうか▼フランスの哲学者ベルナールは、「過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手に出来なくなった状態」を「象徴的貧困」と指摘、現代に警鐘を鳴らした。その象徴的貧困がわれわれを流されやすくしていると言っても過言ではない。しかもその貧困さが極端から極端へと流れるのが現代なのである▼精神科医の加賀乙彦さんは、「流されないようにするには情報リテラシーを鍛えることしかない」(『不幸な国の幸福論』)と指摘している。情報リテラシーとはマスメディアや公的機関、政治家、インターネット、広告などが発信している様々な情報を主体的に読み解いて、その真偽を見抜き活用する能力のことをいう▼目の前に現れる事物に少し距離を置いて冷めた目で見ることも大事だ。言葉や現象面だけでなく物事のプロセスや背景を見ることも忘れないようにしたい。要するに政党や政治家に騙されないことである。流されない一票こそ、国を変える力だ。そうした思いで選挙に行こう。

 パーキンソンの法則(2010・6・1)

 パーキンソンの法則というのがある。その第1は、公務員の数はなすべき仕事の量あるいは有無に関係なく、一定の割合で増加するというもの▼第2は「支出は収入の額と一致するまで増大する」という考えである。これは国も地方も同じで、国の財政は個人の家計と異なり、歳出に応じて税負担を決めるやり方だから、課税を増やし、不足した場合、無限に赤字国債が増発されるのである▼公務員改革や特殊法人、公益法人の事業仕分けで「やはり」と納得させられたのがこのパーキンソンの法則である。そのなれの果てが、国の膨大な財政赤字と夕張市に代表される財政再建団体への転落である▼長野県大滝村は村営スキー場の失敗で莫大な赤字を抱え(公債費比率42・2%・歳入の4割以上が借金の返済にあてられる)、06年に職員の給与を25%、07年と08年にも20%、09年も10%カットした。現在も6%のカットが続いている。大滝村は財政再建団体一歩手前の「財政再生団体」である▼一方、福岡県大野城市は職員数を増やさず市民と行政のパートナーシップで、行政運営に取り組んでいる。人口9万5075人で職員数は448人。人口に対する職員数は0.46%。人件費率13.1%は全国最低だ▼大野城市は、区(自治会)の連合体であるコミュニティによるまちづくりの組織を地区毎に立ち上げ、権限を移譲して予算を配分、地域のことは地域でやるという都市内分権(地域内分権)に取り組んでいる。コミュニティや民間委託、嘱託職員、有償ボランティアなどを活用して、小さな地方政府で市民満足度の高いサービスを提供しているのである▼大滝村は財政運営の失敗で職員の人件費カットを余儀なくさせられ、これは現在も続いている。大野城市は人件費が財政を圧迫しないよう職員数を抑えて地域内分権を実践している。行政は放っておくといつの間にかパーキンソンの法則におかされる。大滝村のようになるか大野城市に習うか、答えは明白だろう。

 公務員の給与を2割削減すると6兆円の財源が生まれる(2010・5・15)

 サラリーマンの給与総額はこの10年間で14兆円も減った。平均給与も465万円から429万円にダウン。非正規労働者の比率も23%から34%へと上昇した▼これに比べて公務員の平均給与は660万円から730万円。民間と比較して200万円から300万円のひらきがある。国税庁の給与実態調査によると、年収300万円以下の人が40%を占めるというから、ワーキングプアと呼ばれる人が5人に2人いる計算だ。年収200万円以下の貧困層も1,000万人を超えた▼これから考えると、公務員の給与が民間と比較していかにかけ離れたものであるかが分かるだろう。白鴎大学法学部の福岡政行教授は、公務員の高額な年収(平均700万円)退職金(2,500〜3,000万円)恵まれた共済年金(月額25万円以上)を称してお得「3点セット」と指摘している▼民主党はマニフェストに国家公務員の人件費2割削減をうたった。だが、地方公務員の人件費2割カットはどこにも見当たらない。公務員の人件費は約32兆円であるから、国と地方の公務員の給与を2割カットすると6兆円近い財源が生まれる▼福岡教授は「不況、消費不振、税収減、失業、賃金カットというデフレスパイラルが進行している時代に、税金を納めている労働者より税金を給与にしている公務員の給与が高いのはどう考えてもおかしい」と怒っている(『公務員ムダ論―不況時代の公務員のあり方』角川書店)▼国家公務員の天下りの禁止、採用半減、地方への移管などというのは公務員制度改革の本質を衝いたものとはいえない。民主党は本丸(給与)に切り込むことができるのだろうか。マニフェストがまたもや色褪せてきた。

 「税金を喰っとる方が極楽」では地方自治はなりたたない(2010・5・1)

 全国に例のない「市民税の恒久的な10%減税」、予算の使い道を地域住民が決める「地域委員会」の創設、議員定数と報酬を削減するなどの条例案を打ち出した名古屋市の河村たかし市長が、議会の抵抗に遭って公約の実現を阻まれている▼地方主権とは税金の使い道を住民自らが決め、その使途をコントロールするというのが原則だ。リーマンショック以降、企業は業績が悪化し、勤労者の所得が減り続けたため、自治体は大幅な歳入不足に陥っている。従って財政運営は「入るをはかって出るを制す」が基本だ▼その意味では河村市長のいう、減税して市の収入を削ることで役所の無駄遣いを減らす、市長の給与を減額して800万円にする、議会の定数と報酬を減らす、さらには「地域委員会」を創設して住民自らが税金の一部の使い方を決めるという「地域内分権」の手法などは、「入るをはかって出るを制す」の原則に合致している▼議会の賛同が得られないのは、事前に根回しもせず政策をぶち上げて賛成を迫り、反対すればとことん批判する市長への反発が原因ともいわれる。議会を解散し、出直し市議選で公約の実現をはかれるか。河村市長にとって議会改革は、マニフェストの実現以上に難題である▼それにしても「税金を払う方が地獄で、税金を喰っとる方が極楽」(河村市長)では地方自治はなりたたない。議会解散の直接請求が実現するか注目されるが、河村市長を選んだ名古屋市民は議会改革にも責任があるだろう。

 高速道路は地域を崩壊させる(2010・4・15)

 相模縦貫道路の海老名ICが開通し、厚木市内に流入する自動車の数が減ったといわれている。相模川以東で生活する人たちは厚木まで来なくても海老名から直接東名高速に乗れるようになったからだ。その結果、厚木市内の渋滞が緩和された▼都市が高速道路で結ばれると、外から人とモノが流れ込み、地域が元気になると考える人は多い。かつて厚木市は「ハイウェーのまち」というスローガンを掲げてまちづくりを打ち出したことがあった。だが、都市が高速道路でつながっただけでは、地域が生産と消費の恩恵を無条件に受けられるわけではない。モノや金、人は、引力が強い方へと引き寄せられるからである▼生産や雇用の場があり、魅力的な商店街やショッピングセンター、文化や娯楽施設、観光地があれば、それだけ引力が強いから、外からの流入が期待できる。逆にいうと、そうした引力が弱いと、資源が外へ向かって流失していくことにもなるのである。相模縦貫や第2東名、246バイパスが整備されても厚木市が元気になるという保証はない▼厚木は海老名に追い越されてしまったという話が出る昨今、高速道路が整備されると、厚木に人は来ない、車は通過するだけ、逆に厚木市民が外に出ていくには大変便利になったという結果になることもありうるのだ。高速道路は地域を崩壊させる。街が元気になるのは高速道路ではなく、地域力なのである。

 まちの景観を壊す政治家のポスター(2010・4・1)

 先にも紹介したが、都市プランナーの森賢三氏は『地域再生の処方箋』の中で、美しい景観を維持するための方策には、1.地域に自然環境を取り戻すこと、2.不要なものを地域から削り取っていくこと、3.地域に伝わる歴史や文化をしっかりと継承していくことの3つがあると述べている▼「不要なものを地域から削り取っていくこと」とはどういうことだろうか。例えば電線の地中化。厚木市も中心市街地の電柱や電線が地中化され、街並みが随分ときれいになった。工事前と工事後を見比べて見ると、電柱と電線が消えるだけで、空が大きく広がり街並みがスッキリしたことに驚く▼街中に氾濫する看板やサインも同様であろう。周囲と調和しない異質な色や違和感のある形は、見ていて落ち着かないばかりか嫌悪感さえ抱く。それが個性になっている場合もあるが、たいていは街のノイズである。なぜなら美しい景観とは調和や秩序、共鳴によって得られるからである▼ポスターはどうか。特に問題となるのが選挙に出る人や政治家のポスターだ。特に選挙が近づくと、政治活動と称して街中のいたるところに大きな顔写真を刷り込んだポスターが大量に貼られる。美しい景観にマッチするとはとても思えない▼これは政治活動の自由と景観とが対立する問題だが、きれいなまちづくりを提唱する行政や政治家が、自ら景観を壊すようではいかがなものかと思う。不要なものを地域から削りとっていくことは、人々の心をきれいにすることでもある。政治を志す人は率先してルールづくりに参加して欲しい。

 植生を考えた自然の再生(2010・3・15)

 相模川の景観を高めようと相模川景観づくり推進会(企業、漁業関係者・実会、厚木市など8団体で構成)が、このほど相模川河川敷にバラを植えた。今回は第1期緑化計画で、第2期と合わせると、旭町健康広場からあゆみ橋までの河川敷4,250平方メートルと堤防452メートルをバラでうめつくすという▼植栽は相模川の自然を取り戻そうという試みでもあろう。バラの花ばかりでなく自然はどれも例外なく美しいが、それは自然が繊細な波動を有しているからである▼だが、自然を取り戻すことは、闇雲に樹木や花を植えればいいということではない。その地域に昔から存在していた自然に出来る限り近づけることである。多自然型川づくりやビオトープは、そうした考えにもとづいて出てきたものであろう▼例えば相模川にはカワラノギクやカワラヨモギ、タチヤナギ、カワラナデシコなどが生育する。中には絶滅危惧種に指定されている植物もある。『厚木の花めぐり』を著した諏訪哲夫さんは「河原の一部に相模川固有の野生動植物を保全することも百年の大計として重要」と指摘している▼横浜国大名誉教授の宮脇昭さんは、その土地に昔から存在していた植生を調べて『日本植生誌』にまとめた。いまでは土地本来の植生をポット苗を用いて植える「宮脇方式」が全国的に知られている▼景観形成といっても、私たちが気をつけなければいけないのは、見た目だけのきれいさや植生を無視した自然の再生である。地域にはその土地に適した植物が存在し、その違いが地域の個性ともなる。自然は命のリレーで、個性をバトンだと考えると、バトンは永久(とわ)につなげるものでありたいと思う。

 景観計画に必要な発想(2010・3・1)

 厚木市は昨年12月「厚木市景観計画(案)」をまとめ、今後、景観法にもとづく良好な景観を形成するためのまちづくりに取り組む。良好な景観を形成する方針や区域、良好な景観を形成するための行為の制限、景観重要建造物や樹木などを定め、地域の特性にあった景観を維持するほか、推進地区なども指定する▼良好な景観とは美しい街並みや個性的な街を指す。その方策は3つあると都市プランナーの森賢三氏が『地域再生の処方箋』で述べている。1つは地域の自然環境を取り戻すことである。だが闇雲に木を植えればいいというものではない。昔から自生していた自然に可能な限り近づけ、その土地固有の自然を復元することだ▼2つめは不要なものを地域から削り取っていくことである。人間は無秩序な開発によってたくさんのエゴを生みだしてきた。電柱や看板、異質な色や違和感のある建物だ。しかしそれを簡単に取り除くことは出来ない。中長期を視野に地域の人々と議論し、個性や美しさへのこだわりを持つことである▼そのこだわりが3つ目に掲げる地域に伝わる歴史や文化の継承である。地域で育まれた歴史や文化は、地域の命を伝えるバトンである。歴史や文化をみんなで共有すれば、その地域で何にこだわるべきかが見えてくる▼愛媛県内子町は古い建築物の保存を進め、その運動を「町並保存」として町全域で展開した。その時のスローガンは「花から団子」である。美しさや個性にこだわれば、経済はあとから付いてくるという考えだ。

 市民と行政の協働化は小さな役所をつくること(2010・2・15)

 地方自治体の最大の悩みは歳入が減っても行政サービスを低下させない予算配分をいかに行うかにある▼不況で税収が落ち込み、貯金も切り崩して底をつき始めた。いきおい借金に頼らざるを得なくなるが、身の丈を考えた借り入れにしないと後世に大きなツケが残る。借金を減らしながら健全財政も維持しなければならない▼歳入不足の時代に、人件費をそのままにしてサービスを減らすというやり方は市民の批判を招くことは必至だ。人件費、物件費を抑制しながら増大する補助費や扶助費にどう対応するかが腕の見せどころなのである▼行政サービスをすべて役所がやろうとすると、人件費の削減には限界があろう。これからは何でも役所がやろうという発想はやめるべきで、たとえば公民館や地区市民センターの仕事を、すべて地域に委託して自治会やNPOに任せることを考えなければならない▼地域主権とは地域のことは地域で行うという「地域内分権」を拡大していくことにある。市民の自治意識や創造性を活用し、雇用の創出につなげるのである▼「市民と行政の協働化」というのは、役所の組織や人員をそのままにして市民ボランティアに依存するのではなく、役所がやっている事業をどんどん市民に委託して職員を減らし、小さな役所をつくっていくことなのである。

 だまされた(2010・2・1)

 「人はみな泣きながら生まれてくる。阿呆ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな(シェイクスピア『リヤ王』)。その阿呆ばかりいる世の中に生きていると、だまされたと思うことがたくさんある▼最近では日本政府の核持ち込みに関する密約。通過・寄港は「核持ち込み」に含まれず事前協議の対象外であったことを示す当時の外務次官の証言テープが出てきたため、政府の嘘の答弁が明らかになった▼神奈川県で問題となっている不正経理。税務課職員が約1億2千万円の預け金をつくり、5千万円以上を着服した事件である。着服したのが税務課員であるというと、だまされたと言うよりは裏切られた感じだ▼民主党のマニフェスト。鳩山総理と小沢幹事長の政治と金をめぐる問題、暫定税率の維持、子ども手当など、政権交代しても約束が違うじゃないか、だまされたと思う国民も多い▼グローバル資本主義。規制緩和と構造改革が活性化の処方箋だった市場主義も残念ながら「見えざる手」は働かなかった。出てきたのは偽装と食品汚染、価格破壊、環境汚染と格差社会の出現である。市場にだまされたとしかいいようがない▼民主主義はどうか。民主主義も右に行ったり左に行ったり、時には迷走してちっとも前に進まなかったりしてわれわれをいらだたせる。「民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にもできない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」(ウィンストン・チャーチル)▼人も権力も、主義も限界を抱えている。われわれはこの人と権力と主義に何度だまされてきたか。「驕れるもの久しからず」だ。欲望と傲慢さに懺悔。

 グローバル資本主義からグローバル市民主義へ(2010・1・15)

 鳩山政権の「地域主権改革」は、この通常国会に「地域主権推進一括法案」を提出して実行段階に入る。地域主権改革によって自治体はこれまで以上に仕事の守備範囲や仕事量が増えてくるだろう▼しかし、地方に権限と財源が移ってきたからといって 公務員を増やして天下りを認め、小手先だけのアウトソーシングや協働化だけに終わらせては、これまで国が担ってきた無駄と非能率性を地方に再生産するだけであろう▼官から民への規制改革への流れには偽装、過剰な助成は過保護や無駄な行政を生み、補完行政には民業圧迫などの批判が指摘された。市場では 経済活動が縮み価格が下がるデフレが続いて10年。安売り競争は自らの首を絞めるともいわれているが、グローバル資本主義の結果がこれである▼環境や食糧問題など、世界は格差を広げる競争社会ではなく共存共栄を求めている。それは地域社会を構成している市民が主役になれる社会だ。同志社大学の浜矩子教授は、これを「グローバル市民主義」と指摘している▼地域主権は住民の信頼の上にしか成り立たない。住民監視を強め、自治体の自己決定、自己責任、自己負担を貫くには、住民が自ら考え、治めるという「地域内分権」の徹底なしには進まない。地方主権改革は地方の受け皿改革でもある。市民が主役になれるかどうかが問われているのである。

 最大多数の最大幸福が政治か(2010・1・1)

 年末年始、全国136の自治体が、生活困窮者の相談や食事の提供、宿泊場所を用意する。国の緊急雇用対策に盛り込まれたいわゆる「官製派遣村」だ▼日本で非正規労働者が増え始めたのは90年代で、規制緩和、終身雇用の見直し、労働者派遣法の施行などによってその数は急速に拡大した。中でもワーキングプアは550万人を超えたともいわれている▼ 社会学者の橋本謙二氏は「いま問題となっている非正規労働者は、その極端な低賃金、家族形成と次世代を再生産することの困難さにおいて伝統的な労働者階級以下の存在だ」(『格差の戦後史』)と指摘している。こうした「アンダークラス」は92年には384万人(全就業人口の6%)だったが、現代では800万人(12・8%)に急増している▼格差はいつの時代でも存在してきた。かつてマルクスは「蓄積された社会は無階級社会ではありえない」と指摘したが、現代資本主義において最下層の労働者階級よりも低いアンダークラスが出現しているのである▼しかもこの格差の拡大は所得や資産ばかりでなく、政治家や医者、経営者などの特権層・富裕層で世襲化が見られ、世代間移動の減少を生みだした。つまりエリート層出身でないとエリートになれない社会が形成されているのである▼格差は経済の状況や政府の政策などによって大きくなったり小さくなったりする。子ども手当一つとってもそうだが、政府が考える制度や政策が、必ずしも格差を是正するとは限らない。最大多数の最大幸福より少数の最大不幸者をどう救うかが問われているのである。

2010年賀状