風見鶏

2003.01.01〜12.15

 西山の市道は利用者がなくなったのか?(2003.12.15)

 西山の市道の廃止付け替えに関する荻野地区住民説明会で、市側は「採石のため道路を残すのは困難で、機能回復を図るため付け替えを行う」と説明した▼この説明に市民は納得するであろうか。反対している住民は、市は開発行為によって行政財産が不利益をこうむらないよう業者を指導すべき立場にあるのに、「企業に便宜を図るとはトンデモナイ」と怒っている▼道路法第10条によると「市道は一般交通の用に供する必要がなくなったと認める場合、全部又は一部を廃止することができる」とあるが、厚木市の場合、利用者がなくなったと誰が判断したのであろうか▼平日、見に行ったら歩く人がいなかった、西山の市道はハイキングコースではないなどというのは行政のまったくのご都合主義による判断で、むしろ30年以上も整備せずに放置しておいた市の職務怠慢こそ指摘されなければならない▼地元住民が言うように、西山の市道は、単に人が山道を通るだけという性格を有しているものではない。空気や草木、景観、癒しなど市民が共有できる財産的価値は市内でも例がなく、生態、環境、文化的価値が極めて高い▼市は「代替ルートで機能回復がはかれれば道路管理上問題がない」というが、こうした発言でこの市道の持つ価値を矮小化しているようにさえ思える。付け替えによって明らかに道路の価値は消滅する。市民は貴重な財産を失うのである。

 市道の廃止・付け替えと公益性(2003.12.01)

 厚木市は9月議会に、西山の尾根道になっている市道を廃止して付け替え認定する議案を提出した。都市経済常任委員会で審議されたが、地元への十分な説明がなく、廃止の理由も明確でないとして継続審査になった。11月21日、今度はこの議案に地元住民が異議を唱えた▼市道を廃止して付け替えするには、原因となる行為に公益性がなければならない。高速道路やダム、住宅団地の建設、耕地整理、あるいは利用者が著しく利便性を欠く場合などである。西山の場合は岩石採取が目的だから、公益性というよりは業者の都合である▼廃止するには生活道路であれば周辺住民の理解が必要だが、荻野地区自治会への説明は極めて不十分であるという。この道は登山道やハイキング道でもある。いわば環境悪化の歯止めともなる道路で、廃止するにしても自治会長の同意だけで十分であろうか▼西山の華厳山頂には、下荻野の俳人小林芹江の「此山やこの鶯に人も居ず」の句を刻んだ発句石がある。尾根道からの眺めは素晴らしく、晴れた日には新宿の副都心や相模湾が一望できる。荻野中学の子どもたちや地元住民は、この西山を校歌や音頭に歌い、故郷を思う精神形成のよりどころにしてきた▼その西山の稜線が岩石採取によって頂上から2百メートルも削り取られる。地元の人たちは「西山の市道は自然破壊を防ぐ最後の砦である」として市道の廃止を否決する陳情を提出した。議会の良識ある判断を期待したい。

 入学試験より期末試験(2003.11.15)

 「政権選択選挙」といわれた今回の総選挙は、「自民党は候補者」「民主党は政策」で選ばれた傾向にある。特に小選挙区では候補者、比例区では政策という形に顕著に現れているようだ▼これまで小選挙区で選ばれてきた候補者も、女性問題や暴力団との癒着、問題発言などではみなこぞって落選の憂き目にあった。やはり有権者は候補者の資質や言動をきちんと見ているのである。人格・識見ともに信頼される候補者は当選するが、有権者を見下したり馬鹿にしたり、反感を持たれるような候補者は落とされる▼一方、知名度も地盤もないのに当選した候補者も大勢いる。これらの候補は「マニュフェスト(政権公約)」(民主党)という看板だけで当選した。ムードや風が大きくものを言ったのである。日本新党や新進党の時にもこうした現象が見られた。その時、当選した人たちはその後どうなっているだろうか▼目標の200議席に届かないと分かった民主党の小沢一郎氏が、テレビに向かって「(民主党の)マニュフェストには今いち具体性が欠けている」、また「(民主党は)日常活動が全然、足りない。ムードや風まかせではいけない」語っていた。自民党に比べて組織づくりや日常活動で、大幅な遅れをとっていることの嘆きである▼これからは具体的な政権公約を掲げない政党や候補者は有権者にそっぽを向かれるだろう。だが、政権公約は諸刃の剣でもある。次回はその実績と政権担当能力が間違いなく問われるし、看板だけで当選した人も、次の選挙では日常活動が間違いなく問われてくるのである。入学試験は難しいが、期末試験の方がもっと難しい。

 官僚政治の構造改革(2003.11.01)

 21世紀初頭の日本の行方を決める「総選挙」が告示された。今回は日本では初めてともいえるマニュフェスト(政権公約)選挙である。政策に具体的な数字を並べたり期限をつけるというのが、これまでとは異なるところで、日本の政治も公約を大切にし、政策で政権を競い合うという時代に突入したといえるだろう▼政策研究大学院大学の飯尾潤教授は、このマニュフェスト選挙について、「与党にとって政権公約は実績が問われる期末試験。野党にとっては将来構想が試される入学試験」と述べている(10月20日・神奈川新聞)▼小泉首相は、郵政や道路公団の民営化を挙げ「官から民へ」を自民党構造改革のスローガンとして掲げている。菅代表も「脱官僚宣言」を唱え、官僚政治の構造改革を訴えている。民主党は政権を取れば事務次官会議を廃止し、各省の幹部を政権が任命するという。これまでは官僚の身分保障という制度の前に、思い切った改革が出来なかったから一歩前進であろう▼官僚の身分保障とは、解職に対する意義申し立てがあるということ、そして官僚が仕事をやらずにサボっていても、あるいは成績を上げなくても、刑事事件以外は解雇の対象にならないということである。民間では社長の方針に従わなかったり、成績を上げることが出来なかった社員は、解雇の対象になるのは当たり前の話であるから、官僚とはなんといい商売だろうと思いたくなる▼官僚政治の打破とは、政治家が政策を決定し、官僚には執行だけを任せるという本来のやり方に戻すことである。政権を担う政治家が、政権に協力し、その方針に沿って業務を着実に遂行する官僚を、自由に任命できなければ官僚政治の構造改革などは絵に描いたもちに終わってしまう。自民党はこれまで政策や法案の作成、予算編成を全部官僚に任せてきた。それをいいことに官僚は何の権限もないのに天下国家を論じてきたのである▼残念ながら自民党には官僚人事の改革案がない。官僚政治の改革案のない「自民党の期末試験」がいいのか、それとも各省の幹部を政権が任命するという「民主党の入学試験」がいいのか、官僚人事の改革もマニュフェスト選挙の争点だ。

 ゴミ集積所の移動(2003.10.15)

 相模原市が9月末からJR淵野辺駅北口地区で、一般ごみの夜間個別収集を開始した。これまでどこの自治体でもゴミ出しは早朝が常識だったが、それを夜にして混雑する駅前での歩行者の安全と美観を守るのがねらいだという▼最近のごみ出しのマナーはひどい。住民のモラルの低下とともに、収集日や時間外にも平気でごみを出してまちを汚くしている。中には夜中に地区外の人たちが車で持ち込んでゴミを捨てていくという不心得者も後を絶たない▼相模原市が夜間収集に踏み切ったのは、こういうゴミ出しの乱れと事業系ゴミの一般集積所への投棄を防ぐのが目的だ。個別収集にして集積所を廃止すれば、時間内に出せないゴミはその家に残るだけで、事業系ゴミも混入することがない▼東京のある下町では、固定したごみ集積所がなく、しかもゴミ集積所が日によって移動するという。町内会の人がその日の朝、「集積所」と書いた看板を自宅の前に出すまで、その日の集積所の場所が分からないのである。時間が来ると集積所は閉鎖され、次回は別の家の前が集積所になるという仕組みである▼固定したごみ集積所には、大きな入れ物があるため、決められた日や時間を無視してどうしてもゴミを捨てやすくさせる。きれいな街づくりのため、厚木市や自治会もゴミ集積所を無くしたり固定させない方法というのを考えてみてはどうかと思う。

 まちづくり条例(2003.10.01)

 空き缶や吸い殻などのポイ捨て禁止などを定めた「厚木市まちづくり条例」が、10月1日からスタートする。条例は複数の条例が一体的に機能する理念条例と、市民の要望の強い福祉、環境、土地利用に関する3つの個別条例からなっている▼たとえば美しい環境のまちづくり条例には、空き缶や吸い殻のポイ捨て禁止のほか、飲食物自動販売機設置者への回収容器の設置義務、落書き行為の禁止、ペットの糞の放置禁止、糞を持ち帰るための道具の携行義務、ペットの放し飼いの禁止、公共の場所への違法看板の掲出禁止、歩行喫煙禁止の努力義務、公共の場所でのたん、つばなどの禁止事項が定めてある▼いずれも社会生活を営んでいく上で最低限必要なマナーだが、このマナーを守れない人には10月1日以降、改善命令を出し、なおかつ改善命令に違反した場合は罰則が適用される。禁止事項によっては改善命令抜きにただちに罰金が科されるものもある▼罰則は空き缶や吸い殻のポイ捨て禁止が2万円以下、回収容器の未設置者は氏名の公表と5万円以下、落書きは改善命令抜きに5万円以下の罰金が科せられる。またペットの糞の放置、糞を持ち帰るための道具の未携行、ペットの放し飼いについては、罰金はないが氏名が公表される▼この種の条例では、罰則規定を盛り込まない自治体もあり、どこまで実効性が上がるか疑問視されていたが、厚木市の場合は実現を担保する手段を明確化している。ポイ捨て1号とならぬよう、市民一人ひとりの意識の定着をのぞみたい。

 派閥と側近政治(2003.09.15)

 10年ほど前、「週刊東洋経済」が、評論家の佐高信氏を司会者に、自民党の政治家たちと政治改革をテーマに座談会を行った。その中で小泉純一郎氏と田中秀征氏が議論しており、そこで小泉氏は次のようなことを述べている▼「もし小選挙区になり、派閥がなくなったとしたら、権力者の総理とか幹事長の側近政治になるよ。吉田時代のように、総理の眼鏡にかなった者しか重用しない、総理ににらまれたらずっと冷や飯という側近政治になる。これに対し、派閥が抵抗勢力になって抑制できるという面もある」。このとき田中氏は「心配しなくても派閥なんかなくなるよ」と述べているが、小泉氏は「派閥はある程度残る」と主張している▼自民党の総裁選たけなわの11日、小泉総理は日本記者クラブで開かれた4候補の共同会見で次のように言い切った。「派閥の機能はすでに壊れた。もう後には戻らない。派閥の領袖が資金を集められず、ポストも約束できない。国民の意向が派閥を変えたんです」▼10年前小泉氏は中選挙区論者だったから、派閥についての考え方が今日と違うのは当然としても、当時、小泉氏は派閥がなくなったときの総理の側近政治を予言し、一方でそれを抑制するのは派閥であると矛盾した言い方をしているのである▼派閥が解体して側近政治だけが残っても困るが、小泉氏の言うように本当に派閥の機能は壊れたのだろうか。「自民党をぶっ壊す」と言って、自民党の中でただ1人国民の支持を集めた小泉氏のパフォーマンスを苦々しく思いながらも、各派閥は選挙に負けることを恐れて身動きがとれないだけではないのか。自民党の大方は小泉氏が派手なワンマンショーを見せようと閣僚人事を弄(もてあそ)ぼうと、壊れるよりはましなのである。抵抗勢力といわれる派閥でさえ、小泉人気にあやかって選挙に勝とうと考える浅ましさだ▼「派閥がなくなったら権力者の側近政治になるよ」という小泉氏の論理は、小泉氏のリーダーシップにあるのではなく、国民に受けるカリスマ性(意外性と言ったほうがいい)とタレント性に裏打ちされたものでしかない。そのカリスマ性やタレント性が低下すると、小泉氏は間違いなく国民的支持を失う。小泉内閣の崩壊である。その時、派閥が再び息を吹き返してくる可能性はあるのだろうか。残念ながら小泉政権の崩壊は、自民党による派閥政治の復活を意味するものではない。小泉氏が政権の座から滑り落ちた時、国民は小泉氏によって延命された自民党政治に間違いなく蓋をするであろう。小泉氏が危惧する側近政治(小泉氏の場合パフォーマンス政治)を抑制するのは派閥ではなく国民なのである。

 精神のリレー(2003.09.01)

 最近、10代の青少年による動機の不可解な犯罪や、インターネットで知り合った若者の集団自殺など「若者の心」が大きな問題となっている。この若者の心は一言でいうと「自分が何者であるか」という疑問である。これまで私たちは、若者が発する「空虚な自分」という言葉を、何度も耳にしてきた。しかも、驚くことは、こうした疑問に悩む若者が増えていることと、年齢が低年齢化していることである▼「自分が何ものであるか」という根元的な問いは、言ってみれば「人間とは何か」という問いでもあろう。文学でいえばドストエフスキーの世界である。人間は「私は私である」という自己完結的な論理を持っていなければ、生きていくことはできない、存在の自己証明をすることができない▼ドストエフスキーは、暗い地下室に閉じこもって、こうした命題と闘いつづけ、次々と作品を生みだして行ったのである。その代表作が『地下室の手記』である。この「自分は何者であるか」という疑問は、かつては私たち大人の意識をも凌駕した。いや現在もそうであることに変わりはない。なぜなら、人間は精神的な知恵をリレーしていくランナーでもあるからだ▼作家の埴谷雄高氏は「この精神のリレーというのは非常に難しい。なぜなら、リレーする時に渡されるバトンには“より深く考えること”という言葉が刻まれているからである」と言っている(『精神のリレー』河出書房新社.1976)。ドストエフスキー以上に深く考えることは困難であるが、少なくともドストエフスキーににらまれた以上、われわれはより深く考えようとする姿勢だけは持って走らなければならない▼若者たちに伝えたい。「人間は昔から今日まで誰でもそれを考えてきた。答えは分からないけれど、少なくとも、大勢の人達にバトンを渡すことはしてきた。だから一人で疑問を感じないで、あなたもバトンを渡して欲しい」▼「人間意識しすぎることは病的である……それにしても、いっぱし人並みの人間が最も得意とする話題は何であろうか。答え、自分自身のことである」(『地下室の手記』ドストエフスキー)。自分は何者であるか? 若者よ!自分自身のことを話そう。

 古池や蛙飛び込む水の音(2003.08.15)

 雨上がりで蝉時雨の聞こえる夕方、あるお寺を散策した。蝉時雨が途絶え、ほんの一瞬静寂さが戻ってきた時である。どこからともなく「ポチャン」という音が聞こえた。思わず「蛙かな」と思って池をのぞき込んだが、蛙の姿は見えなかった▼筆者の脳裏にあの有名な芭蕉の句がよぎった。「古池や蛙飛び込む水の音」。古池があって、そこに蛙が飛び込んで「ポチャン」という音がした。その後、また池に静寂が戻ってもっと静かになったという意味である。正しく芭蕉の句に浸った一瞬でもあった▼ところが帰ってから境野勝悟さんの『利休と芭蕉』(致知出版)という作品を読んで唖然とした。境野さんはこの句は悟りの句だというのである。あるお坊さんが芭蕉に「如何なるか、これ人生」と聞くと、芭蕉は「蛙飛び込む水の音だ」と答えた。古池に蛙がポチャンと飛び込んだ水の音が人生、要するに「人生はポチャン」だというのである▼確かに無限の宇宙や自然の生命の歴史から見ると、人間が80歳位生きたとしても、蛙が水に飛び込む音の瞬間でしかない。だから芭蕉は人間、あれがいいこれが悪い、これは得だ損だ、などと文句を言ったり、物事にこだわって一生を無駄にするのではないと教えているのである▼ポチャンという水の音を聞くことによって人間は自然の生命とともに、「あるがままに」呼吸をする。この「あるがまま」を認めると、不思議と人生の次に打つ手や物事の本質が見えてくるというわけだ。境野さんは芭蕉の句は「わび、さび」の思想だと言っている。

 物から心の商店街づくり(2003.08.01)

 商工会議所が「厚木TMO構想(中小小売商業高度化事業構想)」をまとめ、中心市街地活性化の仕掛けとして7つのハードと6つのソフト事業を提案している▼このTMO構想の柱は「物を買う」から「生活を楽しむ」場への脱皮にある。単なる商業施設や大型店の集客には限界があり、生活者の価値観やニーズの多様化、個性化に対応できない「まち」は見捨てられていくからである。新しく出てきたのが文化や伝統、イベント、交流、学習、生活支援、バリアフリー、資源、環境というキーワードだ▼活性化の一つ「厚木文化村施設整備事業」は、シアターや演芸場、ギャラリー、グルメ、フリースペースなど、商業核にとって変わる新しいタイプの文化村を提唱しているし、「生活エンジョイ型複合拠点施設整備事業」には、子育て支援や生活支援、体験学習、文化活動、サービス施設の充実などを中心に据えている▼地方の名産を一同に集めて展示販売する「全国物産舘」は居ながらにして食文化を味わえるとともに、大型空店舗ビルの再生を狙った戦略だ。ソフト面では、楽しさや魅力を演出する毎年イベント・毎月イベントなどを提唱しているし、街の美化環境保全モラルの向上、青少年健全育成、エコマネーを活用したボランティア活動支援などは、これまで商店街の活性化とはほとんど無縁だった戦略である▼物から心の商店街づくりへ、空洞化が指摘される厚木の中心市街地も、このTMO構想で光が見えてきそうな感じがする。

 地域活動が当選を決める(2003.07.15)

 厚木市議選は、39人が立候補したにもかかわらず、選挙戦は予想以上に低調で、投票率も過去最低の48・42%に終わった。現職は3人が落選したものの、17人が当選、新人9人、元職も2人が返り咲き、顔ぶれがかなり変わった▼地域代表か、政党や組織か、パフォーマンス型か、敗者復活組かなど大きな話題を集めた選挙戦だったが、結果をみると、固い組織に支えられた政党や地域地盤を固めた候補が抜群の強みを発揮した▼駅頭での朝立ちや自転車を利用したパフォーマンス組も、無党派だけでなく後援会組織や支持基盤をしっかり固めた候補や知名度の高い候補が当選した。また、市長選、県議選に出馬して落選した敗者復活組も話題を集めたが、批判をバネにした候補や知名度のある候補が返り咲きを果たした▼選挙戦半ばに新聞折込された選挙公報を見ると、市のハートプランをそのまま掲げたような内容が目立つ中で、具体的でユニークな公約や注目される政策を掲げた候補もいたが、必ずしも当選には結びつかなかった▼考えて見ると、市議選は有権者にとって一番身近な選挙である。日頃のつきあいや地域にいかに密着しているかが大きく物を言う。脱政党といわれる時代に、政党や組織だけに頼っていても駄目だし、目立つことだけをしていればいいというパフォーマンスや政策本意だけでも当選は無理だろう▼気まぐれで、選挙に行かない有権者の心理をつかむのは難しいのである。有権者のうち半数は投票に行かないのが昨今の選挙だ。それだけに最後は地域活動が当選を決めるのである。

 市議選の制度改革(2003.07.01)

 前号で市会議員選挙への逆戻り組(市議を辞職して市長選や県議選に立候補したが、落選したので再び市議選に立候補する人、あるいは新人で県議選に立候補したが落選したので市議選に乗り換えようという人。敗者復活組とも呼ばれている)のことを書いたら、大きな反響があった。「その通りだと思う、立候補する人はどういう神経をしているのか」「厚木だけに見られる現象だ」「有権者を馬鹿にしている」「気軽な就職口を探すつもりでいる」など、そのほとんどが批判的な意見だった。中には「市議選を市長選、あるいは県議選(統一地方選挙)と一緒にやったらいい」という声もあった▼出馬する人の資質や人間性に期待出来ない以上、制度に手をつけるしかないという考え方だと思うが、いくつか可能なものがあったので紹介してみる。厚木市議の任期は通常7月までだから、任期を満了しないで選挙を前倒しで行うのは、法制度から言っても無理である▼1つは議会を解散し、統一地方選挙や市長選の日程に合わせることである。この場合の解散権は市長にある。地方議会で市長不信任案が可決されると、市長は40日以内に辞職するか、議会を解散しなければならないとあり、市長と議会が対立している場合の伝家の宝刀だ。しかし議会と市長が対立していない以上、現実論としてはこれは不可能だろう▼2つ目は議員自ら総辞職する方法がある。これは、自治法上総辞職の規定がないため、かりに総辞職を議決しても法的には何の効力も有しないから単なる無駄に終わる。ただ自治法では議会の解散に関する「特例」を認めている。地方議会の解散に関する特例法2条によると、定数の4分の3以上の出席で、5分の4以上の同意が得られれば解散できる(5分の1以上で否決)とある。しかし任期満了を経ずに解散をやると、年金受給資格に満たない議員が抵抗したり、政党や個々の議員の利害得失などもからむため、議会世論がまとまりにくい面もある▼3つ目は市町村合併による方法である。例えば厚木市と清川村、あるいは愛川町が合併し、合併特例法により新しい市の議員定数を含め選挙の執行日を、市長選や統一地方選挙に合わせるというやり方である。選挙の前倒しが出来ない以上、一時的に任期が延びるという調整期間が必要だが、地方自治の再編と分権強化が問われる昨今、前向きに検討する課題であろう▼最後に住民の直接請求がある。住民が議会の解散を求めて有権者の3分1以上の署名を集めて選挙管理委員会に提出するというやり方だ。署名が有効と認められた場合、住民投票に付し過半数の賛成を得られれば解散となる▼解散の特例、市町村合併、住民による直接請求など、いずれも手続きと時間がかかるため現実的にはなかなか難しいが、それぞれ一考には値する。厚木市議会も住民も真剣に議論してみてはどうか。

 逆戻り組(敗者復活組)(2003.06.15)

 7月6日告示・13日投開票で厚木市議会議員選挙が行われるが、今回は定数28に対して新人・現職入り乱れて40人近くが出馬を予定しており、これまでにない激戦が予想される▼この中には市長選や県会議員選挙に落選した人が、再び市議選出馬を目指すという、いわゆる「逆戻り組」(敗者復活組)と呼ばれる人たちもいて、論議を呼んでいる▼なぜこうした行動が取れるのかというと、厚木市の場合、市長選、県議選、市議選の執行日が同じ年にあるが、告示日がバラバラで、いわゆる「統一地方選挙」から外れていることが指摘されよう。異なる選挙執行日が、立候補の機会を拡大しているばかりでなく、一番出やすい市議選が最後になっているからである▼2つ目には立候補者の資質があろう。昔は市議から県議、あるいは市長選、さらには国会議員選挙に出馬した場合、落選したら元に戻るというケースはまずなかった。当選するまでは2〜3回挑戦するか、潔く政治の世界から足を洗うというのが常識だったように思う。政治家は常に上昇志向があって下降などというものは存在しなかった。落選者は恥を知っていたし、プライドもあったのである▼ところが最近ではそんなことはお構いなしのようだ。市長、県議、市議は、仕事の内容が全く異なるにもかかわらず、当選するなら何でもいいとばかりに出馬するのである。まるで気軽な就職口探しといってもいい。当選すれば儲けもの、落選しても7月の市議選がある。結果として名前や顔を売るための予備選に利用しているといった具合だ。こうした行動に「有権者を愚弄する行為だ」と批判する人もいる▼3つ目は選挙に金がかからなくなったということが指摘されよう。昔と違って今は選挙ポスターの製作費、選挙はがきの郵送料、選挙カーの燃料代や運転手の経費などは公費負担になっている。極端に言うと、供託金だけで選挙に出れるといった時代である。お金をかけないから損得勘定も働かない。こうした人たちは駅頭に立ったり、ビラを作ってばらまいたり、自転車に幟(のぼり)を立てて歩くなどのパフォーマンスがお好きで、目立った行動に出るのがお得意である▼厚木は8年ほど前から被選挙権を行使する人たちの行動が、非常に軽くなってきたように思える。これは喜ぶべきことか悲しむべきことか。有権者はそうした点も冷静に判断したらどうか。

 いい病院、いい医者の見分け方(2003.06.01)

 いざというときにどんな病院にかかるか―心臓手術を受けた患者の皆さんが、5月5日藤沢市で「いい病院・いい医者の見分け方」と題して、パネルディスカッションを行った。そこで出た話が大いに参考になるのでちょっと紹介してみる▼まずは救急医療。日本の救急医療は1次、2次、3次に分かれ輪番制をとっている。輪番制は患者のたらい回し防止にはいい制度だが、逆に言うと曜日でその人の命や運命が決められるという制度である。病院によってはまだ腕の未熟な研修医が当直しているケースもあり、この輪番制には大いに問題があるという▼次に救急病院は1次より2次、2次より3次に連れて行かれる方が安心ということ。1次というのは外来診療専門で、入院を必要としない患者が訪れる病院。2次は24時間いつでも緊急入院に対応できる医療機関だ。そして3次は集中治療室などがあっていつでも手術ができる病院のことをいう。救急車の出動を願う時、患者が救急隊員に「大したことはない」と見栄を張ってしまうと、まず3次救急の病院には連れていかれない。だから救急隊員には絶対に見栄を張らないことだという▼もっといいのはあらかじめいい病院を見つけておいて、その病院の患者になっておくこと。救急隊員に「ここの病院にカルテがある。この病院の患者だ」というと、救急隊員は大体そこの病院に連れていってくれるからである▼そして病院選びで最も重要なことは、年間手術の症例数や死亡率(生存率)、カルテ、レセプトなどを公開する病院を選ぶことであるという。もちろん公開しない病院には行かない。ましてやリピーター医師(医療事故やミスを何度も起こす医師)などは論外である▼医療事故市民オンブズマンの副議長をつとめている伊藤隼也さんが、昨年『これで安心!病院選びの掟111』(講談社)という本を出版した。会場でも紹介されていたが、これは医療ミスから患者を守るためのマニュアルで、ぜひおすすめしたい本である。また、読売新聞のホームページ「医療ルネサンス」なども、手術の実力をわかりやすく解説していて大いに参考になる▼日本の医療は情報開示が遅れているから、患者がいい病院を選ぶといっても情報が乏しい現状ではなかなか難しい。昨年4月、厚生労働省は、一定件数以上に手術が満たない医療機関の点数は3割減にするという制度をスタートさせた。これは「症例数による病院のランク付け」ともいえるもので、官により医者の腕を客観的に評価するシステムができたということでは、「大化改新」ほどのインパクトがあるといわれている。しかし、日本医師会はこうした改革にかなりの抵抗を示したといわれ、その後一定件数という国の基準がものによってはだいぶゆるやかになった。そういう話を聞くと、患者サイドが「実力主義の病院選び」という行動に出ることによってしか、日本の医療は良くならないと思う。

 マイナスの勇気(2003.05.15)

 一流企業といわれるところに勤めていて、立派な肩書きを持っていた人がある日突然解雇される。会社が倒産して夜逃げする人も増える。この大不況の時代にちっとも珍しくない話だが、そういう人たちは今後をどう生きていくのだろうか。彼らは自分がいかに肩書きというものに依存して生きてきたかということを、ヒシヒシと感じているに違いない▼社会的立場を失った人たちは、追いつめられて自殺を図る者もいる。日本では今、自殺者が年間3万人を超えるという。「人間らしく生きなければ生きる資格はない」と勝手に思いこんでいるのであるが、作家の五木寛之氏は「大事なことは、いかに生きるべきかを優先して考えることではない。自殺する猿よりも生き残る豚のほうが正しいと覚悟を固めることこそが大切なのである」と言っている(『情の力』講談社)▼日本は肩書き社会だから、肩書きがないと信用されない、自己表示ができないと思いこんでいる人たちが多い。特に政治家ほど肩書きにこだわる人種はいない。現役をリタイヤしたり、選挙で落選しても「前市議会議員」とか「元市議会議員」などと紹介されたり、名刺を作ったりするのは政治家だけであろう。民間人となれば元職や前職という肩書きはまったく通用しない。昨日まで一流会社の部長だった人が、今日はただの人になったとするなら、途方に暮れるばかりである。多くの批判をよそにいつまでも役職を辞めずにいる人たちも、肩書きを失った時の寂しさを恐れてからのことであろう▼ブルック・ニューマンという人が『リトルターン』というある日突然、空を飛べなくなった鳥(コアジサシ)の物語を書いている。五木氏はこのリトルターンのことを、「リストラなどの厳しい現実にさらされている中高年サラリーマンを象徴している」(『前掲書』)と指摘している。高度成長からバブル崩壊を経て、日本のビジネス社会には飛べなくなった鳥、リトルターンが失業者のようにあふれている▼失った肩書きを取り戻す努力をするのか、それとも肩書きに頼らずに生きていく道を探しだすのか。五木氏は次のように言っている「放棄できるものはすべて放棄してしまえばいい。放棄するのは恥でも何でもありません。本来、人間は裸で生まれてきた。自己破産や離婚や失業ぐらいどうということはない、と考えたほうがいい。いわばマイナスの勇気とでもいえばいいでしょうか。失うことの勇気、あるいは捨てることの勇気、そうしたものがこれからの時代には大事になってくる」と。

 知不知・知未知・知無知 (2003.05.01)

 文章を書く仕事をしていると、さまざまなところで間違いを犯す。自分で書いたものがプリントされてきて、誤字脱字を発見すると「シマッタ」と思うと同時に、文章としての価値が音をたてて崩れていく姿を想像して唖然となる▼誰も気がつかなければいいなと思ってしまうが、そんな時に限って「この字間違っていますよ」と指摘されるので、誤魔化したりやりすごすわけにはいかない。最近まで「こんなことも知らなかったのか」「えっ、この字はこう読むのが正しいのか」と思うこともしばしばだ▼無知な自分にただ恥入るばかりであるが、「自らの無知を自覚することが真の認識に至る道」(ソクラテス)でもあろう▼心臓外科医である大和成和病院の南淵明宏医師が、朝日新聞の連載で次のようなことを書いている。「知不知(知らざるを知る)」という言葉がある。自分が知らない、知識がないということを自覚するという意味だ、「知未知(いまだ知られざるを知る)」はどうか。これは誰もその答えを知らないという事実を認識することである。では「知無知(知らるるが無きを知る)」はどうなのか。これは「生命の仕組み」など、地球上のだれも想像すらできないような概念があることを認めることである(「カルテの余白」朝日新聞2003.1.18)▼なるほど、そうなると自分の「無知」は「知無知」ではなく「知不知」なのではあるまいかと思う。従って「知未知」「知無知は」いまだにおよばざるがごとしである▼筆者の生活も、こうした無知を痛感しながらの毎日である

 市長交際費 (2003.04.15)

 かつて自治体の長は交際費を湯水のように使っていた時代があった。厚木市もバブル期の交際費は現在よりはるかに多く、山口市長になってからかなりの部分を削ったが、それでも年間600万円以上は使う▼この市長交際費から、民間の忘・新年会に「ご祝儀」として支出するのは、公職選挙法が規定している「寄付行為」に当たるとして、同市王子の土地家屋調査士が横浜地裁に訴えていた「市長交際費訴訟」の判決があった▼裁判長は公職選挙法の寄付行為については、市長個人から支出されたものではないので違法ではないとして訴えを棄却したが、交際費の支出の適否については、19件15万5千円分は「職務との関連性がない」として違法であるとの判断を下した▼市長は多くの民間団体や企業から行事などの招待を受ける。社会通念上寄付を伴うものもあるから、ご祝儀を持参しないというわけにもいくまい。問題はご祝儀を公費から支出するかどうかという点にある▼その判断基準は「職務との関連性」にあるが、中にはきちんと線引きができない微妙なケースもあるだろう。これを機会に「厚木市はご祝儀を一切包みません」と宣言してはどうか。それで非礼になるのなら今後、そんなところには行かない方がいい▼と言って市側から積極的にそうも言えないだろから、招く方が、僅かな心付けなど期待しないで、「ご祝儀の類は一切お断りします」と案内するだけの心遣いをしてはどうかとも思う▼かりに持参されても受け取りを拒否すればいい。そうしたことが慣例になれば、市長は、いちいち気を遣わないで出席することが出来るし、交際費の節約にもなる。使う方にも支出が甘くならない判断が必要だが、市長を招く方にも、交際費を使わせないようなそうした配慮が必要だ。

 政策とスローガン (2003.04.01)

 統一地方選挙の第2弾・神奈川県議会議員選挙が4日告示される。デフレ不況が長期化し、先行きがまったく不透明な中での統一地方選挙だ。厚木市内でも会社が倒産したりリストラに遭ったりして、とても選挙どころではないという有権者もいる▼県議選厚木市選挙区には堀江氏、小林氏、佐藤氏、半田氏、山本氏、内海氏が立候補を予定している。それぞれ政策や理念を掲げて激しくぶつかりあうが、立候補予定者はどんな政策を掲げて選挙にのぞむのだろうか。政党機関誌や政策ビラに掲げているスローガンを見てみた▼「改革断行\安心・安全な社会を目指して」(堀江)、「夢・挑戦!ふるさと復活」(小林)「ナンバーワンよりオンリーワン・厚木力復活」(佐藤)「暮らし、福祉を大切にする県政への転換」(半田)「県政を改革しスリム化をはかります」(山本)「既成政党中心の県議会を抜本改革」(内海)▼政党カラーもあるが、6人6様でそれぞれに個性と特徴がある。4月9日には選挙公報が新聞折込で各家庭に配布されるから、このスローガンの裏付けとなる具体的な主張や政策をじっくりと拝見したい▼地方分権が進むにつれ、改革もスローガンではなく確実に実行の段階に入ってきた。借りもののスローガンや色あせた言葉は有権者の心をつかまない。立候補予定者が自分の言葉でしゃべっているかも見極めたいところだ。

 経営改善計画骨子案 (2003.03.15)

 債務超過に陥った第三セクター会社厚木テレコムパークが「経営改善計画骨子案」をまとめ、金融機関や市に協力要請していることが10日開かれた定例議会一般質問で明らかになった▼市側は中身の公表をすべて明らかにしなかったが、簡単にいえば株主、銀行に損をしてもらい、行政にも応分の協力をしてもらって、借金を減らし身軽にするというものだ▼テレコムに関してはこれまで議会でも再三再四質問の対象となってきたが、市側はそのたびに「株式会社であり、会社独自で再建策を考えるべきである。出資に応じた責任しかない」という答弁を繰り返してきた▼しかし果たしてそうだろうか。厚木テレコムタウン計画は、市が旧郵政省の「テレトピアモデル都市」の指定受け、現在地に高度情報通信基盤が整備された未来都市をつくるため、事業主体となる第三セクター会社を官民共同で立ちあげたプロジェクトである。事業をリードしたのは紛れもなく市であり、初代社長には厚木市長が就任、その後も、市の天下り組が社長に就任している▼商法的にはともかく、こうした経緯から判断すると市の政策責任は決してまぬがれるものではない。問題は市が3セクの経営責任逃れをするのではなく、事業の存続が本当に可能かどうかを、3セク任せにしないで真剣に考えるべきなのである▼もしそれが困難であるなら一刻も早く解散整理に向けた道を模索すべきであろう。単なる不動産賃貸業に終始するのなら、テレコムの看板をはずすしかないし、3セクである必要もない。債務超過に陥った現在、判断はむしろは遅すぎるくらいだ▼それにしても大株主である市に独自の再建策や解決策がないとは何とも情けがない。

 課題山積 (2003.03.01)

 2月16日に執行された厚木市長選挙で、現職の山口巌雄氏が3選を果たした。山口氏は「厚木のまちづくりを盤石なものにしていくため、市民の皆様とともにあつぎハートプランを推進し、躍動から躍進をキーワードに心輝く躍動のまちづくりを進める」と3期目の抱負を語った▼厚木市はいま大きな課題をいくつも抱えている。市民意識調査でも指摘されたが、厚木市はこの5年間で治安が著しく悪化した。また、相次ぐ大型店の閉鎖や移転などで中心市街地が空洞化し、経済の地盤沈下が続いている。これをどう住みやすく活気のあるまちにしていくか▼債務超過に陥った第三セクターの厚木テレコムは再建不能だし、交通渋滞対策も抜本的な解決策を見い出し得ないでいる。山口市長はこうした課題にどう応えていくか、具体的な成果が望まれる▼市民が主役の行政手法も、自治会長だけに依存するというやり方は限界にきているだろう。4月からスタートする市立病院も、医療実績に応じて診療報酬が決まるという時代に、経営と併せて、医療のあり方や質をどう高めていくか課題山積である▼自民党県連の政治大学に参加した受講生が、卒業論文で厚木市職員のやる気のなさを指摘していたが、尸位素餐や不作為の罪を大量生産する職員が多い中で、分権の受け皿として能力を磨き改革を実行できる公僕をいかにして育てていくかという人事管理の面でも、市長の力量が問われてくる▼これらを注意深く見守りたい。

 厚木市長選その2(2003.02.15)

 厚木市長選挙の投票日まであと1日。立候補を届け出た現職の山口巌雄氏、新人の又木京子氏、奈良握氏の3人が、本厚木駅前や団地、地域の隅々まで選挙カーを回し、最後の訴えに懸命だ。最初から争点が定まらず盛り上がらない選挙だが、中盤には、現職を非難中傷する怪文書が不特定多数のもとに郵送され、話題を集めた▼気になるのは投票率だ。各陣営とも「盛り上がりにかける」と投票率を心配しているが、有権者からは「不況で選挙どころではない」という声も聞こえる。リストラや企業の業績不振により、生活防衛の方が大事ということなのだろうが、身近な暮らしを左右する市長選だけに、棄権はできるだけ避けたい▼前回は38・61%で、過去最低だった。低投票率が続く中、過去の市長選で高い投票率を示したのは、平成7年の51・26%、昭和54年の77・97%。これは政権交代時の投票率である。今回の選挙は市政を大きく変えようという流れになっているのか、そうではないのか、有権者の判断が試されるところだ▼ところで無党派層の行動が当落に大きな影響を及ぼすといわれるのが、昨今の選挙である。投票率が低ければ組織の支援を受けている候補者が有利、高ければその逆というのが一般的な見方だが、昨今は政党や企業、多くの団体から推薦を受けても落選する候補者がいて、政党選挙や後援会選挙も全くあてにならなくなってきた▼やはり最後は政策がものをいうだろう。有権者は各候補者の政策をもう一度じっくりチェックして投票に行っていただきたい。

 選挙占い(2003.02.01)

 コンピュータ占いで知られる山口鶴扇さんが、このほど「厚木市長選立候補予定者の選挙占い」を送ってきた。姓名判断や気学判断、四柱推命、密教宿曜占星術、歴史占いの5分野から、立候補予定者の運勢を占ったもので、興味深いデータが出ている▼たとえば四柱推命によると、現職の山口巌雄氏は「バイタリティあふれる活動家。性格は真面目で誠実、今年は社会的な面で大きな動きはない」、新人の又木京子氏は「ボランティア精神にあふれ、よく人に尽くすタイプ。今年は幸運への出発点となる年で、将来への出発期となる」、奈良握氏は「少々の逆境をも苦にしない精神的なたくましさと粘り強さを持っている。今年は社会離れの年で現状維持が精一杯」という診断だ▼気学判断や密教宿曜占星術になると、また内容ががらりと変わる。密教よる三人の相性診断では、かなりショッキングな診断結果も出た。山口さんは、過去にも厚木市長選や県議選、市議選などの予測をコンピュータで占い、高い的中率を誇っている。断るまでもないが、占いは一種の統計学だから、私心は一切入っていない▼山口さんは「人間の生涯は運・才能・環境・努力によって決まる。努力は60%だから、占いはあくまで参考だ」という。今年は「辛抱羊年」と言われている。辛抱する方が勝つのか? この市長選占いはホームページで公開する。

 公開質問状その2(2003.01.15)

 厚木市長選挙に立候補を表明している3氏に、前号と今号で30項目のアンケートを行ったが、興味深いデータが出た▼厚木市が抱えている大きな行政課題は何かという質問には、奈良氏が福祉・不良債権処理・まちの活性化をあげ、又木氏が公共交通不足・防犯対策・テレコム、山口氏が治安・少子高齢化・交通渋滞と答え、又木氏と山口氏、奈良氏と又木氏に共通認識があることがわかった▼市長に求められる資質・能力では、奈良氏が決断力、創造性、弱者への共感、又木氏がマネージメント能力、正義感、批判を受け入れる大らかさ、そして山口氏が決断、熱意、誠実と3者3様だ▼テレコムの経営再建についての質問では、奈良氏と又木氏が、債務処理を行い解散すべきであると答えたのに対して、山口氏は株式会社であり、会社独自で再建を考えるべきであると回答している▼3氏とも答えが一致したのは、健全財政を維持するための対策と河川利用についての質問で、3氏とも歳出全体を見直す、ビオトープなど多自然型川づくりを推進すると答えた▼合併問題については、奈良氏が消極的、又木氏が住民投票にかけるべき、山口氏が広域行政を推進する中で市民意識に併せ検討すると答えており、3者とも慎重姿勢であることが分かった▼21世紀のまちづくりの方向性は奈良氏が環境福祉都市、又木氏が生活安全都市、山口氏が誰でもが住んでみたい住みたいと思うまちづくり、だった▼3者の比較はホームページ上で閲覧できるので見ていただきたい。

 公開質問状(2003.01.01)

 今年の厚木市の最大の行事は2月に行なわれる厚木市長選挙である。4月には統一地方選挙(知事選・県議選)、7月には市議選を控え、6月には衆院解散も予想されるため、今年は選挙一色の年になりそうだ▼政治や経済、社会など、日本のあらゆる分野が構造改革によって大きく姿を変えつつある今日、今年はいったいどんな年になるだろうか。20世紀は国も市町村もすべて「施し」の政治だった。だが、21世紀は市民1人ひとりが国や市町村に対して何ができるかという時代である▼国から県へ、県から市町村へという分権の流れは、今後、「市町村から住民へ」という流れをますます加速してくるだろう。自分たちのまちを住みやすくするのかそれとも住みにくくするのかは、住民自身の選択と力によって決まると言っても過言ではない▼見識にあふれた住民は賢明なる判断をくだすであろうし、無気力な住民であれば愚かな答えが返ってくる。そういう意味では、今年の一連の選挙は市町村から住民へという分権の流れを占う大事な選挙になってこよう▼厚木市長選には、すでに又木県議・山口市長の両氏が出馬を表明している。又木氏はミニ集会や街頭演説など活発な動きを展開しているし、山口氏も市の行事や支援組織の会合などにこまめに顔を出し現職の強みをいかんなく発揮している。だが、そうした動きとは別に両者からはどうもはっきりした争点が伝わってこない▼このため市民かわら版では、昨年末、両氏に30項目のアンケート調査(公開質問状)を行った。地方自治や厚木市の行政課題について、両氏の考え方、政策の違いを浮き彫りにするのがねらいである▼この調査が、「改革に挑戦的で、物事をはっきりとわかりやすく言う」分権時代のリーダーを選ぶ参考になればと思っている。(30の公開質問状)