風見鶏

2000.1.1〜2000.12.15

  県立から市立病院へ(2000.12.15)

 県立厚木病院を厚木市が受け入れるという方向で協議することが明らかになった。市民は総じて歓迎する声が多いようだが、中には反対の立場をとる人もいる。両者の声をまとめてみた▼歓迎する声は、「民営化になると不採算部門が切り捨てられる可能性が強く、地域医療サービスが低下する」「お金のかからない公立病院としてのよさが維持できる」「大和、小田原、平塚など県内九市に市立病院があり、特例市をめざす厚木市にないのはおかしい」など▼一方、反対の声は、「県が赤字で放り投げた事業。厚木市が火中の栗を拾うことはない」「財政が厳しい時代に市民に新たな負担を強いるのは困る」「病院経営のノウハウのない厚木市では、医療のレベルが低下しないか不安だ」などである▼確かに地域医療の拠点として市が公立病院を受け持つ役割は大きい。だが、県と同じやり方だと同じ額の赤字を抱え込むだけでもある。医療の質の低下を招くことなく効率性を追求し、同時に赤字を減らす努力もせねばなるまい▼この問題は、市立病院を拠点にして市民の健康状態をチェックできる総合的検診システムや、病気の予防、高度な通信回線と医療情報機器を活用した在宅診療システムを開発するなど、市が新たな医療政策にどの程度取り組めるかにもかかっている▼厚木市の地方分権による受皿としての能力が、医療面でも問われているのである。

  事務事業見直しとNPO(2000.12.1)

 厚木市は西暦2000年を「平成改革の年」と位置づけ、事務事業1421件の総点検を行った。平成13年度と14年度から実施するものを合わせて283件の改善を行う▼見直しによる費用効果は事業廃止や委託による削減分が1億9400万円、受益者負担などによる増収分が3900万円、対象や範囲の見直しと新たな事業による増額分が1億8600万円だ。差引4700万円の費用削減となる▼見直しの中で市は、動物の死体収集や英語指導助手の派遣、粗大ゴミ処理電話受付事務、粗大ゴミ収集など委託化を進めるものとして十事業のほか、文化活動の市民応援団や市民ふれあいマーケットなどボランティア及びNPOを活用すべきものとして9事業をあげている▼地方分権は役所が直接行う仕事を削減し、権限と財源を住民にできるだけ配分して、住民自らの総意で市民サービスや事業を行なう行政を進めることでもある。その意味ではボランティアやNPO、行政協力団体、自治会などが果たす役割は想像以上に大きい。公共施設の貸館業務や地域の文化・福祉活動のほか、最近では河川や道路整備なども市民に任せる自治体が出てきた▼今回、厚木市の見直しではこうした考え方はまだ弱く、及び腰だ。市は小手先だけの事業を任せないでもっと大胆な事業を市民に任せるべきなのである。

  行政手法(2000.11.15)

 厚木市の相模大堰右岸河川敷・多目的広場の整備計画が暗礁に乗り上げそうだ。市は大堰をはさんで上流を地元専用広場、下流をスポーツ広場として整備、芝生を張って移動式ベンチやトイレなどを設置することにしている▼問題はこれが地元要望か否かという点にある。市は地元自治会長の要望を受けて整備計画を策定したという。だが、今回陳情を出した地元住民は、そんな話は聞いていないという。いないばかりか、今日まで十分な説明がなく、市との話し合いに出席したら、人数制限までされ意見表明の機会さえも保証されなかったという▼市が自治会長に話をするのは結構。だが、自治会長に判断を求めるのは誤りだろう。なぜなら自治会長の意見が必ずしも地域住民の意見を集約しているとはいえないからだ。市は自治会長には地元の意見を聞きたいからできるだけ住民を集めて欲しいというべきなのである▼ところが自治会長だけに話した結果、地元住民の声も聞けず、国や県が提唱している多自然型川づくりという最も大事な考えが議論から欠落してしまった。今回の陳情は、市の手法から外れた住民による怒りの意思表示である▼厚木市は市民が主役の手法を間違えていはしまいか。分権の受け皿となる職員の政策立案能力も誠にお粗末だ。これでは国や県は安心して権限委譲ができないだろう。

  クワガタ・カブト飼育事業(2000.10.15)

 厚木市はこの夏「世代間交流クワガタ・カブト飼育事業」に取り組んだ。寝たきり老人ゼロ運動のモデル事業として、地域の自治会館や集会施設、個人宅にクワガタやカブトムシの飼育箱を設置し、夏休み中にその飼育を通じて高齢者と子どもたちとの交流を図るのが目的だ▼クワガタやカブトは個人で飼育しても、越冬をうまくやれば3年間は生存する。ところが、飼育の仕方がまずくて死んでしまったものが大部分あるという。「お年寄りだからといって昆虫の飼育がうまいとは限らない」「行政がやるべきことではない」「税金の無駄使いだ」などいろいろな批判がある▼横浜市では昆虫の生態系を回復しようと、市内に30カ所以上のトンボ池をつくり、市民グループと一緒になって維持管理に取り組んでいる。市民や自治体の自然再生のための活動は、緑化や、昆虫などの生態系の回復、風の道を確保したりビオトープの池を作るなど様々な形がある▼従って自然や文化の伝導者としてのお年寄りの役割は、子どもたちにクワガタの飼育法を教えるというレベルだけの問題ではない。都市を自然の一部と考え、生態系も含めた自然環境を総合的に回復する「エコロジカルなデザイン」を行政がいかに用意できるかにあるのだ。小手先だけのクワガタ・カブト飼育事業ではなく、「都市に農村を持ち込む」〈宗像浩『地方自治の論点101』日本経済新聞社地方部)という大胆な発想である。そこにこそ「元気印のお年寄り」の出番がある。

  人間のリサイクル(2000.10.1)

 10月はリサイクル月間だ。平成3年度から通産省が中心となってさまざまな事業を打ち出しているが、大量生産、大量消費、大量廃棄、そしてそれを支える消費者意識の構造が変わらないかぎり、ごみ問題の有効策は見つからない▼リサイクルを進めるにあたっての初歩は、ごみの分別収集であろう。厚木市でも自治会単位で積極的に取り組んでいるところがあり、そうした地域のごみ集積所は管理が行き届いていて、ごみ出しのマナーもすこぶる良い▼ところが、中にはそうではないところがあって、指定された日のごみ出しマナーを守らないばかりか、持ち出しが禁止されている粗大ごみを平気で捨てていく人たちがいる。しかも夜中に車で乗り付けて、堂々と捨てていくのである▼こうしたごみ集積所には家庭ごみばかりでなく、工場や事業所から出る産業廃棄物なども混じっている。マイカーに積んで通勤途中に捨てていくという例もあり、その地域はごみが外部からも持ち込まれている。従ってこうした集積所は年中ごみが散乱して汚れている▼ごみ減量やリサイクルを促進しようとしても、初歩的な消費者意識がこれでは、分別収集などは絶対に不可能だ。廃棄物のリサイクル以前に、人間のリサイクルをやらねばなるまい。

  しきり直し(2000.9.15)

 厚木市の相川地区に計画されている「相模川右岸堤防道路建設計画」が暗礁に乗り上げている。議会にも反対・賛成の陳情が出されているが、市側の説明不足と不信感から住民の合意がいまだに得られていない▼陳情を審査する議会も、これまで採決の意思を下せないできた。この問題について、9月11・12の両日行われた議会の一般質問で、森屋騏義議員が市側に対し「白紙撤回して最初から議論し直すべきではないか」また、小林常良議員も「しきり直しをして原点に戻って考えるべきだ」と迫った▼道路づくりは地権者の要望を得て行う陳情型と都市計画法や道路法にもとづいて行う2種類の方法があるが、相模川右岸堤防道路はこのいずれにも当てはまらない。もともと地元要望から出て来たわけではないし、都市計画法にもとづくものでもない。当初から無理な計画をごり押ししようとしたところに、この計画の限界がある▼市側は当初の計画通り事業を進める考えでいるが、これまでのやり方では地域住民の合意は得られないだろう。市・賛成者・反対者の3者が同じテーブルにつき、将来の道路づくりの考え方を含めた市民合意をもう一度はかることが必要だ。公共事業のあり方が問われているのである。

  日本の名医(2000.9.1)

 週刊現代9月2日号に興味深い記事が載っていた。「日本の名医ランキング100」と題する特集で、日本人の死亡原因の3大要因である癌、心臓病、脳疾患の治療において抜群の実績を誇る全国の名医100人を選定したという▼選定基準は(1)症例数・手術数(外科であれば年間100例以上の手術をこなす)。(2)緊急時の対応に優れている。(3)インフォームド・コンセントがしっかりしていて患者の信頼が厚い。(4)手術や治療方法を公開している。(5)患者にあった治療を患者とともに考え治療する―の五つである▼この100人の中に大和成和病院心臓外科部長の南淵明宏先生(42)が三星でランクされている。私事で恐縮だが昨年夏、筆者は心臓病で倒れ、この先生に命を助けられた。南淵先生は心拍動下バイパス手術のパイオニアで、1〜2本のバイパス手術なら心臓を止めないで手術をするので有名だ。年間の手術数は200例を越え、冠状動脈バイパス手術では県下でトップの実績を誇る▼手術の模様をデジタルビデオで撮影、希望者に渡してくれるほか、カルテも喜んで公開している。筆者はこの先生が「私は毎日が真剣勝負、情報は隠すことは一つもありません。すべて丸裸です」と言っていたのを思い出す。まさに日本の名医である。

  行政のタガ(2000.8.15)

 厚木市にさまざまな不祥事や問題が起きると、われわれ報道機関に対しても投書や電話、たれこみなどが多くなる。大部分は市の対応に対する不手際を批判するものであるが、中に「行政組織のタガ(桶や樽などにはめる竹や金属の輪)がゆるんでしまっている」という指摘があった▼5年前にタガがゆるんだので一度締め直したが、翌年またゆるんだため再び締め直した。だが、またゆるんで3年後も4年後も同じことを繰り返してしまった。今回で締め直しは5度目になるが、果たしてこのタガは持つのだろうかと不安がよぎるというのである▼こうもゆるみっぱなしになると、締め方が悪いのではないかと疑問が生じてくるのだが、桶や樽などのタガを締める職人に聞いたところ、「締め方が素人だからそうなるのだ。1回や2回ならまだしも3回以上になるとそのタガはもたないから、桶そのものを取り替えた方が早い」と言っていた▼なるほどと思う。厚木市のタガがもたなくなっているとしたなら、何度締め直しても不祥事や事件は水が漏れるように出てくる。そうならないことを祈らずにはいられないが、「締め直すよりも、取り替えた方が早い」という言葉が世論にならないよう、ここは褌を締め直してもらいたい。

  特別権力関係(2000.8.1)

 厚木市が7月21日発表した職員不祥事に関する処分は何とも奇妙なものだった。依願退職した職員は処分されず、監督責任を問われた六人の職員が懲戒処分を受け、市長や助役など3人が給料を返上するという形で責任をとった▼この処分に対して、市民は「不祥事を起こした職員はなぜ処分されないのか?」という素朴な疑問を抱くだろう。通常、任命権者である市長は職員との間に「特別権力関係」(雇用関係)が生ずるから、監督や命令権限が及び、懲戒処分ができる。だが、退職してしまうとこの権力関係が消滅してしまうので、処分ができないというのである▼市は退職金の自主的な返還を求めるというが、これにも強制力があるわけではない。拒否されてしまえばそれでおしまいで、不正をした職員は何の処分も受けず責任もとらずじまいだ。これでは本当に「盗人に追い銭」と同じようになってしまう▼今回の市の処分が妥当だったかははなはだ疑問である。処分の内容を見てもとても公正とは思われない。市は軽微な不祥事の場合、口頭注意とか訓告とかいう行政処分をするが、これもやめにして、処分はすべて文書で残る懲戒処分にしてはどうかと思う。いずれにしてもこの責任は大きなつけとして残るだろう。

  職員不祥事(2000.7.15)

 厚木市職員の五年続きの不祥事に市民は大きな驚きと怒りを感じている。市民が怒っているのは、市や教育委員会が不正の事実をつかんでいたにもかかわらず公表もせず、また考査委員会にもかけずに依願退職させたり、口頭での訓告で済ませたことである▼「すでに返済している」「事件を知った時にはもう終わっていた」「軽微な事案で本人も反省している」というのがその理由である。だから不問にしたというのであるが、これはおよそ尋常な考え方ではない。市や市教委は職員が犯した行為自体をどう考えているのだろうか▼今回の不祥事の問題点は、祝儀や寄付金という「歳計外現金」の着服というケースである。この歳計外現金は公金ではない。市が処分をしなかったのは公金横領には当たらないからだという▼だが公金であろうと、歳計外現金であろうと、着服は着服である。公金でなくても他人の金は自分のものではないし、泥棒したけれど返済したからそれでいいというものではないことは、小学生でも知っている▼確かに五年続きの不祥事は不名誉であろう。だが、不祥事を厳粛に認め、処分と公表を速やかに行なうことなしには、信頼回復の道は開けない。膿(うみ)を出さない再発防止策はありえないのである。

  審議未了(2000.7.1)

 6月16日、厚木市会の都市建設常任委員会で「競輪の場外車券売り場設置計画」に反対する陳情の審議が行なわれたが、委員会は採択も不採択もしない審議未了扱いとした▼6名の委員のうち4名が「申請が出ていないのに、議会が態度を表明するのはおかしい」「市は条例を改正してまで設置するのは不可能だと答弁している」という理由で審議未了に賛成した▼傍聴者からは「門前払いにするのなら最初から陳情を受け付けるな」という抗議の声が聞かれたが、「議運は審議機関ではない。審議をどの委員会に付託するかを決めるだけ」とかわされたという。だが、陳情を満足に審議してもらえない市民の意思はどうなるのだろうか。これは議会としては一番無責任なやり方だろう▼東名厚木インター周辺は、厚木市特別業務地区建築条例を定め、建物用途を制限している。だが、この特別業務地区は景気低迷のあおりを受け、情報通信基盤の整備という当初の構想が頓挫してしまった。地権者にも深刻な影響を及ぼしている▼そこで出てくるのが条例を改正して経済活動を活発化させようという規制緩和策である。確かに場外車券売り場のために条例を改正することはありえないだろう。だが、経済活動活性化のための条例改正、あるいは改正を求める陳情が出される可能性は十分にありうる▼反対住民は陳情を門前払いにされたことで、「外堀が埋められる可能性が強まった」と警戒している。

  アセス逃れ(2000.6.15)

 厚木市が相模川右岸に計画している相模大堰の多目的広場は、芝生を植えて整備することになっているが、昨年10月、県内広域水道企業団が作成した「環境アセス」の変更届けに記載されている「現況植生を保全し管理していく」という内容とは大きく異なっていることが分かった▼8日に開かれた市会一般質問で明らかになったもので、市はこの変更届けの内容を「認識していなかった」と答弁した。この件については、自然保護団体「相模川キャンプインシンポジウム」も、アセス条例に違反しているとして計画の中止を申し入れている▼市側は「アセスの対象区域外なので、違反ではない」と反論したが、納得できる説明に乏しかった。念のため、県環境農政部に聞いてみたところ、「多目的広場は関連事業区域で、アセスの対象区域ではない」と同じ答弁をしてきた▼なら問題ないではないかと思うだろうが、相模川キャンプインシンポジウムの岡田一慶さんによると、これには実は巧妙なアセス逃れがあるのだという。かつては広場は事業区域に入っていたが、それが生態系に配慮するという理由で、エリアを狭めてその外に置いてしまったというのである▼多目的広場隠しのアセス逃れである。岡田さんは、アセスの計画区域は事業区域と関連事業区域の両方含まれるという認識だ。どちらの言い分が正しいかは分からない。だが行政には常に不信感が漂う。

  神奈川ふだん記(2000.6.1)

 5月27日、「神奈川ふだん記50号出版のつどい」に出席した。北見、みちのく、栃木、春日部、所沢、ヨコスカ、湖水会、静岡、東海、あいち、関西、四条畷、高知、そして北九州まで、全国に点在する十四の各地グループがお祝いにかけつけた▼このふだん記は全国に19の各地グループがある。「文章は誰にでも書ける。へたに書こう」提唱者の橋本義夫さんが家庭や農家の主婦に呼びかけて、八王子から少しづつ株分けをしていき、それが全国に根づいた。「神奈川ふだん記」はその草分けである▼各地グループはそれぞれ独立した活動を続けているが決して孤立しない。それはグループ同士の投稿と各地グループをたばねる全国グループに支えられているからであろう。50号記念のつどいに参加した人々は「その人よかれ、その土地よかれ」の精神で満ちあふれていた▼ふだん記は入り口も出口も広い。だから入るのも自由、出るのも自由、会則もなにもない。あるのは喜捨と窓口だけである。文友はしかしれっきとして自立した個人だ。「その人よかれ、その土地よかれ」は、まさに今日でいうところの地方分権と自治の精神であろう▼筆者はこのふだん記の活動にいつも多くのことを教えられる。「逢う人みな師なり」を教えていただいたのもこのふだん記である。「神奈川ふだん記」が書いて花咲く道(哲学)をさらに歩まれることを願っている。

  足による投票(2000.5.15)

 アメリカのチャールズ・チーボという学者が、1954年に有名な「足による投票」という理論を唱えた。それは「個々の住民は自分にとってもっとも好ましい公共サービスを提供してくれる自治体を、自由に選択できる」という考えである▼住民は国家を自由に選ぶことは出来ないが、教育や医療、福祉の水準によって住む自治体を自由に選択できるという考えだ。この理論は、サービスと負担の関係についても適用できる。たとえば救急病院の近くに住んでいる人と、遠くに住んでいる人とでは受けるサービスに差がある。従って近い人の負担を高くして、遠い人の負担を低くすれば良い、つまり便利さや不便さは負担の大小によって決まるというのである▼このチーボの理論は一面では真理だ。しかし、高福祉高負担が嫌ならば、低福祉低負担の地域に移ればいいという考えは、地域間格差の固定につながるし、現実には財産や勤務の状況によってそう単純に行使できるものではない。地方自治の課題は、地域の不均等発展による弊害の排除と、地域の自立的発展をいかに促すかにある▼厚木市の市民意識調査で「厚木市に住み続けたい」7割、「住みたくない」と答えた人が1割いるが、このチーボの理論の「選択と負担」を調査項目に入れると、また異なった数字が出て来るだろう。市民意識調査に欠落しているのは選択と負担の論理である。

  ふだん記50号(2000.5.1)

 愛川町に住む主婦足立原美枝子さんが、ふだん記の創始者である橋本義夫さんから「八菅(はすげ)に株分けをしましょう」と言われて、「八菅」を創刊したのが昭和52年5月▲足立原さんは「書くことは難しいことではない。ごはんを食べるのと同じこと。時候の挨拶や形式ばった書き方は一切抜き。コンチワでいいんですよ。一枚五枚は人を動かし、百枚は全国を動かす」と人々に呼びかけた▲このふだん記は、足立原さんのお人柄もあって、今までペンを持ったことのない家庭や農家の主婦たちも参加、この23年で58人に増えた。読むだけの文友を入れると100人を越えるという▲このふだん記は「その土地よかれ、その人よかれ」が方針である。年齢や男女、階級、身分、学歴などの差別は一切なし。「庶民が大地をころがり、すべてが丸腰」。だから会費も会則もない。あるのは冊子の印刷代に宛てる喜捨だけである。ここには自由、民主主義、そして地方分権の精神が宿っている▲現在、窓口をつとめる足立原三紀子さんは、「ふだん記はコンピュータやインターネットが家庭にも浸透して、孤立化し孤独性の強くなる現代において、かけがえのない存在」ともいう▲八菅は50号を機に衣替えしたが、創刊の精神は不滅である。ふだん記は庶民が書く未来への文化遺産であると同時に、人と人とを結ぶ心のペンの役割も果たしている。

  医療と福祉の連携(2000.4.15)

 介護保険制度がスタートした。気になるのは、介護を受ける人が点数制によって介護が決められるため、福祉の現場で最も大切な「心のケア」が置き去りにされるということだろう▼特にこの介護は女性にとって大きな課題でもある。それは女性の方が平均寿命が長く、多くの場合、親の介護に携わり、夫を看取り、その後に自分の介護の問題に直面するケースが多いからだ▼ホームヘルパーや介護職にあるのも圧倒的に女性が多いし、自分が1人になった時、介護を受けながら同時に社会的な人間関係を交わすことのできる、グループホームのような小規模な施設を求める人たちも多い▼そうした意味では介護保険は、女性の立場から見た運用や制度的な改革が必要だろう。女性の参加を「地域システム」として具体化しうるなら、より柔軟さをもって機能することが可能になるのである。女性は「心のケア」に対しても柔軟に対応できるし、女性の持つ優しさが介護を受ける人にとって、どれだけの支えになるかはかり知れない▼厚木市で医療と福祉機関が連携して、介護保険に対応していこうという「厚木医療福祉連絡会」が発足した。女性がより社会的に主導できるような環境整備に取り組まれるよう大いに期待している。

  天下り(2000.4.1)

 厚木市は4月1日付で人事異動を発令した。その陰では市役所を去る退職者もいる。その退職者だが、「市幹部」の場合、再就職先が決まっているケースが多いという▼再就職先は市の外郭団体や行政協力団体で、いわゆる「天下り」である。天下り先の収入は現役のときに比べて3割から4割は減るが、最低2年は仕事にありつけるというから、幹部は現役の時からすでに退職後の身分が保証されているのかと羨ましくなる▼三役クラスになると、当然天下り先も良くなる。たとえば助役が厚木ガーデンシティビル株式会社の社長になると、1,000万円を超える高額な収入が保証され、退職金も一般職、特別職、天下り先と3回もらえるから、これほど恵まれた人生はない▼もちろん、こうした恩恵に浴するのは一部の人間だけだが、市幹部の天下り先を見ると、退職後の官民格差はおよそ尋常ではない。戦後、役人は自分たちの天下り先を確保するため、市民にとって不要な仕事をどんどん増やしてきた。そして天下り先を行政の紐付きにしてきたのである▼岐阜県瑞浪市では今年から、公社など外郭団体の職員採用を公募制にすることにした。外郭団体へはこれまで市職員OBが採用されてきたが、市民からは「天下り」と批判されてきたためで、これを改革して開かれた採用制度を導入しようというのである▼厚木市の外郭団体も市職員OBの天下りをやめ、一般公募制にしてはどうか。

  市長交際費(2000.3.15)

 地方自治法第199条の2は、「普通地方公共団体は、その公益上必要がある場合において、寄付又は補助をすることができる」と規定している▼かつて自治体の長は交際費を湯水?のように使っていた時代があった。厚木市もバブル期の交際費は現在よりはるかに多い。山口市長になってかなりの部分を削ったが、それでも年間850万円は使う▼この市長交際費から、民間の忘・新年会に「ご祝儀」として支出するのは、公費を使った選挙運動だとして、同市王子に住む土地家屋調査士が監査請求を行なった。民間企業にまでご祝儀を出すのは、公益性を逸脱しているというのである▼問題は出席するしないというよりは、ご祝儀を持参するかしないかという点にある。民間であっても市長は公益性があると判断すればどんどん出席すればいいと思う。その際一切ご祝儀は包まなければいいのだ▼それで非礼になるのなら今後、そんなところには行かない方がいい。招く方も、変に僅かな心付けを期待しないで、「ご祝儀の類は一切お断りします」と案内するだけの心遣いが必要だ▼逗子市は県下でも市長交際費のない自治体である。市長は公益性があると判断すればどこにでも出席するが、ご祝儀は一切包まない。会費の場合は市長個人で対応する。従って市長交際費というものはなく、市交際費として慶弔関係に80万円を計上しているだけである。逗子市はこれで不都合なことは何もないという▼厚木市も4月からご祝儀は一切包みませんと宣言してはどうか。

  校長の力量(2000.3.1)

 「コアジサシはギリッギリッて鳴くよ」「春から夏まで日本にいるんだよ」―2月25日、厚木市立戸田小で開かれた特別授業では、子どもたちが事前に調べたことを文章や絵にして校内に掲示した▼講師に招かれた真鶴中学校の室伏友三教諭が、スライドやカモメの剥製を使ってコアジサシの生態について説明すると、子どもたちは質問に手を上げ、身を乗り出しながら剥製を見つめていた。そして「オーストラリアに行ってみたい」「相模川の中州に行って実際にコアジサシを見てみたい」とさらなる好奇心をつのらせた▼コアジサシを通じて、自分たちのまちや自然、そしてオーストラリアがどのようにつながっているかを考えてもらおうという学校側のねらいは見事に的中した。教師がまったく表に出ないで、子どもたちだけによる授業の進行もとてもよかった▼特別授業のきっかけは、高田浩市議が相川地区の小中学校にこの企画を持ち込んだことによるものだ。戸田小の山本玲子校長は真っ先に手を上げたが、中州が目の前にある相川小の松永稔之校長はこの話を断ってきたという。この判断は教育現場の明暗を分けたといえるだろう▼山本校長の適切な判断は、子どもたちに自然や外国への興味を持たせ、自分たちで調べてみようという行動を起こさせた。子どもたちは大きな自信を得たに違いない。これが「問題発見能力」をもつ子どもたちを育てる教育の姿である▼学校教育は基本的に校長次第で良くもなり悪くもなる。いわば校長の力量次第である。戸田小の山本校長の判断はそのいいお手本であろう。

  和田傳文学賞(2000.2.15)

 伊豆は多くの文人が訪ね、そこを舞台にして数多くの作品を生み出している文学のふるさとだ―平成9年、静岡県はこうした背景をもとに「伊豆の踊り子」や「しろばんば」に続く、新たな伊豆文学や人材を発掘するため「伊豆文学賞」を創設した▼今年で3回目。最近は海外からの応募も寄せられるようになった。審査員は静岡県に縁のある草柳大蔵、杉本苑子、三木卓、村松友視ら一流の文学者が名を連ねている。賞金100万円と伊豆半島1カ月間の滞在券というのも豪華だ。「今回は前回よりもレベルが上がり、文学賞が定着してきた」と主催者を喜ばせている▼厚木市には「和田傳文学賞」というのがある。農民文学の作家和田さんの功績を讃えて創設したもので、毎年、小中学生を対象に作文や詩などを公募して表彰している▼かつて本欄で、この「和田傳文学賞」をもっと権威のあるものに仕立ててはどうかと書いたことがある。和田さんは第1回の新潮文芸賞の受賞者だ。家の光協会との縁も深い。提案は和田傳文学賞を「ふるさとの文学」として全国公募に変え、厚木市と新潮社、家の光協会が主催する文学賞に高めるという内容である。審査員は厚木に縁のある森村誠一やジェームス三木にお願いする▼読者から「それはいいアイディアだ」とお誉めの言葉をいただいたが、市は一向にそうする考えはない。偉大な作家である和田傳さんを、厚木市だけのものにしておくのはもったいない。

  平成の改革(2000.2.1)

 厚木市の山口市長は昨年末、行政自らの責任能力と創造力を発揮するために、「明確な目的の設定と評価による効果的な行政運営」という目標を掲げ、全職員にこれを実行するよう周知徹底をはかった▼行政の新しいルールを確立して、職員の意識とシステムの改革をめざすもので、いわば厚木市の行革推進運動である。同市長は年頭の記者会見で今年を「平成改革」の年、2001年を「新生厚木市役所元年」として位置づけた▼自治体の行革推進運動では、三重県の北川知事が提唱した「さわやか運動」が記憶に新しい。「さわやか」の頭文字は、さ=サービス、わ=わかりやすさ、や=やる気、か=改革である▼運動の根幹をなすのが「事務事業評価システム」だ。全庁共通様式の「事務事業目的評価票」により、事務事業を(1)目的、(2)環境変化、(3)目的の妥当性、(4)改革案という項目に従って分析、成果を指標化するための仕組みである▼山口市長が出した指示は、(1)計画立案=政策の必要性の検討・明確な目的の設定、(2)実施と進行管理=社会情勢や市民要望の再点検・計画目的に十分対応しているか確認、(3)完成・評価=目的達成度のチェック・評価を踏まえた確認・反省―の3本柱である▼問題はこれをどう指標化し採点していくかであろう。結果を総合計画と予算編成に連動させていくものでなければならない。今後の市の取り組みに期待したい。

  住民投票条例(2000.1.15)

 栃木県今市(いまいち)市が制度化しようとした常設の「住民投票条例」案(11月15日号本欄で紹介)が、12月議会で否決された▼法律上の権限配分に抵触し、長や議会の権限を侵害する恐れがある。重大な影響を与える事件とあるが、内容が不明確。賛否が拮抗した場合、市民の間に感情的なしこりを残す。結果を「尊重」するというが、最低投票率が設定されていないと、尊重が生きてこない▼投票に行かない中間的な意見は反映されない。一時の情熱や偶然的要素に左右された予想外の結論となる。市長、議員の議案提出権は現行法で可能であり、これをあえて住民投票条例中に入れる必要性がないというのが否決の理由である▼住民投票には相対的に二つのカテゴリーがある。一つは自治体を二分するような重要問題についての意思を問う意思決定投票、もう一つは条例の制定や改廃などの自治立法についての発議と投票である。立教大学の新藤宗幸教授は、前者を「意思決定投票」、後者を「政策投票」と読んでいる(『NHK人間大学―地方分権を考える』日本放送出版協会)▼こうした意思決定や政策投票が適時に行われるなら、政策争点のない首長選挙やオール与党体制は、成立の条件を持たなくなる。首長や議会は代議制民主主義が侵されると否定的だが、「居眠りしている自治体」が多い今日、否決されたとはいえ自治体政治を活性化しようという今市市の福田市長の政治姿勢には拍手を送りたい。
 
  分権から主権へ(2000・1・1)

 21世紀は「分権の時代」といわれている。分権の目的は一言で言えば、「地方自治の実現」である▼分権化は不可避的に地方自治体の統合と再編成を生み出すだろう。ブロックごとの「地方政府」の確立は不可避であるし、「地方」を「州」に位置づけ、「州政府」の上位に位置づけられる「中央政府」を「連邦政府」へと再編する可能性も検討されるべきである▼中央政府は仕事の主要部分を「地方政府」にゆだね、地方政府もまた「自治政府」にゆだねることが模索されなければならない。より重要なことは地方自治体がどれだけの権限と財源を、住民に委譲できるかである▼大事なことは、国は県、県は市町村の「補完」に撤するということであろう。市町村と住民の関係についても同様である。市町村は住民を指導するのではなく、支援=サポートする機関に生まれ変わらなければならない。このため、市町村は住民に対して、あらゆる情報のディスクロージャーと自治への参加を保障する制度的改革に取り組むことが必要だ▼その前提となるのが、住民自身の「自律」と「責任」である。つまり「地方主権」を可能にするには、住民自身が利己主義や目先の利益主義から脱却し、どれだけ「公共性」と「協同性」の意識を持てるかにかかっている。「自律」と「責任」。分権の時代にこの言葉の持つ意味は想像以上に大きい。

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